2011-05-06 23:28:36雪子

空間の重荷



今回は今年2月に続いて2度目の息子を伴っての楽生院訪問でした。人気がなくなった旧病棟はなんだか殺風景になっていて、とても残念な気持ちになりました。それでも、新病棟に比べれば、やはりこちらの方が心地よいのです。

でも、楽生院の歴史、ここで何十年も暮らして来た方のことを思うと、簡単に「心地よい」といってしまうことにためらいを覚えます。ここで生き延びるということは、私の想像を絶する苦労があったはずです。それでも、楽生院旧病棟にくると、うまく言葉では言い表せない深い感動があります。新病棟でのつるつるして、のっぺりした、つかみ所のない、無感覚/無感動な空間経験とは全く異なるのです。この新旧病棟における空間経験の差異をうまく言語化したいのですが、まだ無理なようです。

最近考えているのは、楽生院を含む病院が一種のアジール(ASYL)だからではないかな、ということです。これも社区大学の授業が始まるまでにきちんと言語化しなくてはならないと思っています。

また、今日、エドワード.レルフの『場所の現象学』をあらためて読み直して、ちょっとヒントが見つかりました。忘れないように、以下にメモしておきたいとおもいます。

「私たちが一番よくかかわっている場所は、私たちの生活のまさに中心であったり、または、抑圧的で拘束的なものであったりする。場所にはまったく重荷でしかない一面がある。それはこの場所に容赦なく縛りつけられているという感覚であり、決まりきった場面や象徴や慣例に縛られているという感覚である。私たちの日常生活の場としての場所には、ルフェールのいう「日常生活の惨めさ」があるにちがいない。それは単調であきあきする仕事、屈従、日常茶飯事への埋没、あるいはその辛さ、卑しさ、どん欲さなどをともなう。人間と場所との間には融和だけがあるのではなく、緊張関係も存在する。(pp110-111)。」

「重荷は常に場所への深いかかわりの一部でもあり、どんなかかわりも、場所が負わせる拘束や、与える惨めさを受け入れるということを含んでいるはずである。」(pp112)

楽生院旧病棟のように、深い衝撃を与える、ごろりとした手触りのある空間もあれば、どんなにこぎれいでも、マスコミが賞賛していても、なんにも感じない空間があります。レルフの上記の文章を読んで、私に深い衝撃を与える空間は、その場所に深く関わっている人がいるかいないか、ということと関係があるのだろうなと思いました。

さて、これをどういうふうにうまく中国語にして授業で話すか、これから考えなくてはいけません。みんなにうまく伝えられるといいのだけど。やれやれ。




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