2005-10-24 13:33:49Eva
弟子たちに愛さ
――――――――――――――聖書の節(回復訳)――――――――――――
マタイ26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病の人シモンの家におられた時、
(7節)一人の女が、極めて高価な香油の石膏の壷を持って、彼の所に来て、食卓
に着いておられた彼の頭に注いだ。(8節)弟子たちはそれを見ると、憤慨して言
った、「なぜこんな無駄遣いをするのか? (9節)これを高く売って、貧しい人
たちに施すことができたのに」。(10節)しかし、イエスはそれを知って、彼らに
言われた、「なぜ、その女を困らせるのか? 彼女はわたしに良いことをしてく
れたのだ。(11節)貧しい人たちは、いつもあなたがたと一緒にいるが、わたしは
あなたがたといつも一緒にいるわけではないのだから」。
―――――――――――――――務めの言葉―――――――――――――――
主を愛した人これらの二人は、らい病の人シモンと、主の頭に油を注いだ女マリ
アでした。らい病の人は罪人を象徴します。シモンは、らい病の人でしたが、主
によっていやされていたに違いありません。彼は主に感謝し、主を愛していたの
で、主と彼の弟子たちのために彼の家で宴席を設けて、主の臨在を享受しました。
救われた罪人はいつもこうします。彼は家庭を開き、宴席を設け、主と主を愛す
るすべての人を招きました。
弟子たちは、主にささげたマリヤの愛を無駄遣いと考えました。過去二十世紀を
通じて、幾千幾万の貴重な命、心の宝、高貴な地位、輝かしい前途が、主イエス
の上に「無駄遣い」されてきました。主を愛するそのような者たちにとって、主
はとても愛らしく、ささげる価値のある方です。彼らが主の上に注いだ物は、無
駄遣いではなく、主の甘さの香ばしい証しです。
11節で、主は憤慨している弟子たちに言われました、「貧しい人たちは、いつも
あなたがたと一緒にいるが、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではな
いのだから」。これは、わたしたちは主を愛して、主を愛する機会を捕らえなけ
ればならないことを示します。
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