2005-07-26 14:42:15MiMi

琉球における儒家思想の影響

琉球における儒家思想の影響

一、はじめに

五百年余にわたる琉球王国の時代を通して琉球では特自性の文化が形成されたが、その文化は一見、中国風に見えるが、純粋な中国文化ではない。それはあくまでも沖縄 の文化であり、生活習慣である 。しかし、従来中国文化の影響が色濃く表れていることは事実である。その中に一番顕著で判りやすい例は「石獅」と「石敢当」である。生活習慣や人生観といった無形の中に、中国の思想、哲学が深く反映されているように思われる。本文に、中国の思想、哲学は、特に儒学がいったいどのように琉球へ形成し、どんなに影響を与えるか究明して試します。

二、家の概念

琉球では、中国の福建、広東の付近の墓を真似した亀甲墓があるから注目された。その墓の形だけでなく、葬儀形式、法事の様式、祖先崇拝の様子もまた日本本土のものとはぜんぜん違っている。とりわけ、紙銭を焼くことや、清明の節の墓参りは、中国文化を受容したものであることは明らかである。これらの死者を祭る行事は、日本本土と比べると、いずれも規模が大きく派手である 。なお、法事した時に、埋葬した死者の遺骨を掘り起こし、それを洗い清めるという骨洗いの儀式までもある。琉球では死者の葬送に関わる行為を非常に重要視しているといえる。それは全部、中国の「家族意識」をもっていた。それらの儀式行為を通じて、祖先を敬いその供養をすることによって、子孫や家族のつながりを再確認して、強化するという機能がある。特に清明の節の墓参りなどは、血族集団のみんなが、共通の祖先の墓前に集まり、持ち寄った供え物の料理を共食するという行為によって、血族集団のつながりが再確認され、そして結束の強化が図られる。
このように葬送の儀礼が、今日もまた残存し継続して行われている背景には、家という概念を非常に重要視する儒教的な思想、儒教道徳である。中国人の思惟の基底には儒教の感覚が存在し、中国文化の形成要因の中で最も大きな位置を占めているのが儒教の概念である。
孔子を祖とする儒学の思想体系あるいは儒教道徳において、血族集団である家の概念を非常に重要なものとしている。また、西洋文明は個人主義の文化であるといわれるのに対して、東洋のそれは集団主義の文化であるといわれているが、ここにも儒教の影響が色濃く反映されているように思える。
法事のたびに、普段は顔を会わすこともないような親族までもが集まり、顔つなぎだけでなく、互いに血族のつながりが再確認され強化されるということは、どこの文化圏にもあり得ることであるが、家を重視する中国文化では、特別に重要なものである。琉球の葬祭行為の様子から、中国儒教文化の影響を色濃く感じることができる。

三、琉球の儒教伝来
 
それでは、儒教の伝来はいつから始めたか。まず、中国隋朝に中琉の最初の交流から見ましょう。隋煬帝は琉球の経済と人心調査のために、何播、のち朱寛などを派遣したが、言語が通じないから、島民一人を連れて帰国、その後、石垣、久米島をはじめ琉球本島との往復が見られるようになった 。そして、両方の往復にしたがって、文化レベルのほうが高い一方から、自然に低い文化地域へ流動していった。中国儒家思想もそういのように、1372年から1879年にかけて、いろいろな経路を通して琉球へ輸入した。その伝来の主な経路は次の四つ方法がある。一、琉球国王から定期的な朝貢。二、中国から冊封 をうける。三、華人の移民。四、琉球人民が中国へ留学するなどがある 。その四つ方法の中に一番重要な経路は朝貢関係である。朝貢を通して、政治的、経済的な交流が頻繁に行われ、学問、文化も高まった。
しかし、琉球は1326年に三山に分立し、分裂な場面になっていた。三山王が競って中国へ朝貢し、明朝の太祖皇帝は使者―梁民を派遣し、琉球の三山王へ別々同様な詔書を送った 。詔書の内容は論語を中心として「修己治人 」の教えで、三山王に強い反省を求めた。兵を休養させて、「徳治」という思想をはじめに琉球の政治に影響した。のち、三山王とも使者を中国へ派遣し、謝意を表した。且つ中山王から、はじめて日致毎、潤八馬、人悦慈三人を明国子監に入学させ、学問を修めさせた。その学問は儒学を中心とし、当然なことである。
一方、中国のほうは、この琉球から学問を求めた留学生に対して、特別な待遇をあたえて、従者を連れてくれても許\\\されていた。清朝にいたって、更に国子監に「琉球学」を特設され、あるいは民間人に対して、製糖、製陶などの専門的な技術を教えた 。文物の交流を盛んになったといえる。
元中九年(1392年)、中山王察度は明国から人を遣して長く琉球に居留させる要求でも提出した。すると、当時の太祖皇帝は程復や葉伊希やそのほかの音楽、礼法専門家を派遣して多くの指導を与える。琉球王をはじめ高官から庶民にいたるまで教育文化を盛んにするように努力した 。教育の先生は大抵論語、、漢学、儒学に通ずる人が多いから、儒教思想が自然に一層広めて王から一般庶民にいたるまでよく浸透していく。明朝以降、福建からいわゆる閩人三十六姓 という人員たちも琉球に派遣されてから、琉球の外交文書も漢文で書いた。
 民間人も個人的に開いた私塾では琉球の子供たちに中国語や四書、千字文、三字経などを教える。その目的は中流間の通訳と官吏の人材を育成する。特に琉球の久米村の人々は万世師表の孔子の徳を賛美して、進貢のたびに、進貢使の一員として明国に行ったとき、山東省曲阜の孔子廟を参拝し、その折に孔子絵を買って帰り、年に二回祭典を行い、聖徳とその教えを実踐するよに心がけた。更に,孔子廟建立を決意した。ついに1674年に至聖廟の中に、孔子の坐像および四配(顔子、曾子、子思、孟子)が経書を持っている立像が完成した。言うまでもなく、同年盛大な釈奠の礼を行った。そのために、琉球に儒教の精神がもっと人々の心に浸透していったのがわかることができる。
  そこで、琉球人に孔子の教えが理解されるにつれて、学校の建説の声もどんどん出てきた。琉球の教育家として名声高い程順則 が総理唐栄司に就任するとともに、琉球王(尚敬王)に奏して、学校建設を申請してから許\\\可された。すると、孟子廟の隣に「明倫堂」という学校が建立した。これが琉球でははじめの公立学校である。その明倫堂で儒教教育の中心として久米村子弟と王府子弟に教えていた。そして、四書五経を講義して、できるだけ理解しやすい方法で儒教の学問を琉球人に普及させて、生活化に及んだ。中には、久米村で生まれた蔡慍 は福州に任職したとき、当地の凌雲寺の隠士に朱子学などの学問を学んでいます。琉球に帰ってから政治、経済、教育、文化のいろいろな分野で、たくさん貢献しました 。

四、琉球朱子学の形成

中国から渡来した渡来人が久米村において小学、四書、六経を教科書として教えていた。清代に至り、清国子監における教学が朱子学になった。その原因は経世致世の学になるのある。朱子学は封建支配を合理化して、とくに君臣、父子の名文をただす道徳の学問であり 、宋代進興士大夫官僚たちの実踐的政治、倫理思想として成立して、その後で科挙における経典解釈に新注(朱子注)を採用したから、国家教学としての地位を確立した。そのために、以後の明、清代に主流な中国思想になり、儒学といえば朱子学をさすようになった。琉球では、十七世紀初期に日本の薩摩の儒学者南浦文之の高弟泊如竹がら琉球に到来し、尚豊王とその子弟に朱子学を講じた 。琉球官生(琉球政府から派遣した留学生)は留学目的が主として官話、詩文表奏咨などの公用実用文の作成を習得し、その時、朱子学の理解に通じできなかった。よく仏教の観点で、あるいは訓詁釈義の枠に限界され、朱子学の実踐面を忘れられ、経世致用の学問としての朱子学本来の思想はあまり受容できなかった。そして、朱子学を経世致用の学にする人は蔡慍こそである。特に、蔡慍が君臣倫理だけでなく、親孝行倫理などの儒教の倫理規範が一般庶民の間に定着させた。したがった、琉球の朱子学といえば蔡慍から始まるといえる。
しかし、琉球の朱子学の成立する前に必ず幾つか要件が必要である。一、商品経済の浸透による都市(町方)の形成である。二、受容主体たる官僚支配階級(士族層)の身分的確立である。三、国家意思の台頭である 。朝貢貿易の展開にしたがって、商品経済の浸透も問題がなかった。身分制の確立も1645年に士農分離制度で確定した。一番難しい用件は国家意識である。
琉球王国は日本と中国に挟んだ間に、王国の独自性を確認していく過程に、中国の文化、儒教思想を導入していった。都市の出現、貨幣経済の発達につれて、治国の具体的な方法や手段も摸索していた。その結果、朱子学を採用して国家意識を強くなるようになる。
 
五、結語

琉球は中国への朝貢をはじめて、清国と冊封関係により国家として存在を確認された 。それから、朝貢を通じて得る利益は琉球の財政を助けるだけでなく、中国の威信を外国に宣揚し、儒教思想の「仁政」を政治、社会、教育などの生活で生かし活用している。冊封は確かに両方ともに利益があったのである 。孔子廟の建立、儒家教育の導入、琉球王国はこのように何百年の孔孟思想の影響を受け、「徳」によって国家を治める観念をもっていたから、従来武力と警察力も全然持っていなかった。とりわけ蔡慍の覚醒は琉球に大きいな影響を与えた、蔡慍の文教に尽くした功\\\労の偉大さはかなり尊重されている。中国と琉球の間に緊密な繋がりもここでもう一度証明できる。
一方、思想と文化の流動性はここで見えるでけだなく、儒教精神、集団の団結心とか、親孝行、人懐かしさの美風が現代に薄れつつがあると感じれ、われわれはけっしてそんな優れた学問思想を捨てはいけない。今の混乱名時代に儒家の倫理精神を求めこそ、明るい世界を期待できるのである。

六、参考文献

◆新崎盛輝 「かつて沖縄は独立国家であった」アテネ書房、1997年。
◆菊地籐記吉「儒教と琉球における教育文化の影響」中流文化経済協会、1991年。
◆呉靄華  「清代儒家思想対琉球の影響」国学文献館、1987年。
◆陳奇禄  「明清における中流関係の歴史意義」中流文化経済協会 、1991年。
◆糸数兼治 「近世琉球における朱子学の受容」国学文献館、1987年。
◆張希哲  「蔡温対琉球の貢献」国学文献館、1987年。
◆田名真乃 「琉球か家譜にみる中国文化思想の影響」国学文献館、1987年。
◆劉長輝  「日本文化思想史概論(講義冊)」淡江大学遠距教学講義。
◆曾煥棋  「明清時代琉球冊封使の渡海の辛苦」琉球中国関係国際学術会議、2001年。
◆豊見山和行「琉球王位と冊封関係について」中流文化経済学会、1988年。



ihsiu 2007-04-08 15:33:51

mimi的日本文學天地被放棄了嗎