2010-11-06 11:35:32雪子

アクセスできるかどうか




妊娠・出産・育児に関するBBSやブログを見るようになってずっと気になっていたことのひとつは、経験の豊かさと言葉の貧しさのギャップです(もちろん私も他人のことをどうこう言えるほど文章がうまいわけではありませんが…)。

もうひとつは、少なくない発言者が、文化資本・社会資本の欠如を公の場で暴露することに対して無自覚・無感覚であり、しかも、自分の状態が「普通」であり、自分と異なる人を排除しようとすることです。

3つめは、BBSで披露される「バカ旦那」に対する愚痴はどれも似通っており、日本人男性の典型的なあり方が繰り返し書かれているにもかかわらず、それを「バカ旦那」個人の問題としてとらえるのみで、日本社会が「バカ旦那」を大量生産している-これは社会の問題だという意識が完全に欠如していることです。「バカ旦那」問題に限らず、毎日毎日似たような愚痴が書き込まれるのに、誰一人としてこれらを社会の問題(階級やジェンダー、制度設計の問題)としてとらえようとしないことに、違和感をもちます。

というわけで、妊娠・出産・育児に関するBBSやブログを眺めれば眺めるほどどんよりした気持ちになるのですが、体調が悪くて本を読んだり文章を書いたりできないときに、ついつい眺めてしまいます。子育てが始まって忙しくなったら、こんな時間はなくなるのかもしれません。

体も頭も思うように動かなくて、PCの前でどんよりしていたときに、内田樹の以下の文章を読みました。まだうまく説明できないけれど、この文章は、私が妊娠・出産・育児に関するBBSやブログを眺めていて感じていたことを別の言葉で言い換えていると思いました。

ブルデューの『ディスタンクシオン』の日本語訳はそれほど難解ではないし、バルトも『明るい部屋』など本によっては読みやすいものもあります。少なくとも、ブルデューやバルトを質の悪い中国語で読むより英語で読んだほうがマシというような環境におかれている台湾の読者に比べたら、日本語ができるということはとても便利なことです。

内田樹はエクリチュールを問題にしていて、それはそれで納得できるのですが、私はそれ以前の問題もあるような気がします。そもそもこれらの本の存在を知るチャンスがない人がいるのではないかということです。自分で手にとって見るチャンスがなかったら、どうにもなりません。

日本で暮らしているとき、私にとってジェンダー研究・フェミニズムはまさにそういったものでした。NGOで働いていたときの上司は女性史研究者で、理事のなかにもその方面の研究者が何人かいましたが、研究の内容も魅力がなかったし、なにより彼女たちの私たちスタッフに対する対応の仕方が最悪で、男女平等とか、フェミニズムとかを大声で言い立てるい女性たちは、自分より若かったり、学歴が低い女性をあからさまにバカにする下品な人たちだと思っていました。だから、数年前台湾で今の指導教官(男性です)の著作に出会うまで、フェミニズムなんて真っ平ごめんと思っていました。

面白い本、発想に出会うことができるかどうかは、もちろん本人の文化資本の多寡によるところもありますが、まわりにどんな人がいるかも大きく影響します。ただ自分より弱い立場にある人にいばったりするためだけに本を読んだり勉強している人がそばにいると、本当はその領域の研究の中にはとても面白いものがあっても、「絶対読むものか」という気持ちになってしまいます。

あと、実家のある地方都市に帰郷すると「私もう年だから、難しい本は読めなくて~」「もう年だから記憶力が落ちちゃってだめなのよね~」というフレーズを同年代の女性からよく聞かされます。彼女たちは25歳くらいから(結婚と同時に、かな)こういう言葉を盛んに発し、「自分の知らないことは知りたくないし、知る必要もない」というメッセージを発信し続けます。別に1年に1度会うか会わないかなので、こういう展開になってもそれで関係が壊れるということはありませんが、生涯こういう知的に閉じた集団に身をおかざるを得なくなったら相当きついだろうなと思います。だから、故郷に帰って子育て…というのは、できれば避けたいです。(私の故郷もそんなに悪いところではありませんが、子どもの知的好奇心が損なわれてしまいそうで怖いのです)。

というわけで、エクリチュールが開かれたものかも大切だけど、自分の周りにどんな人がいるかはもっと大切だと思うのです。

妊娠・出産・育児の体験談ではないけれど、日本語で書いたのでとりあえずこちらに貼り付けておきます。

<参考>
2010.11.05
エクリチュールについて(承前)

http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1518.phpより引用:

ロラン・バルトのエクリチュール論そのものが、そのあまりに学術的なエクリチュールゆえに、エクリチュール論を理解することを通じてはじめて社会的階層化圧から離脱することのできる社会集団には届かないように構造化されていた・・・というメタ・エクリチュールのありようについて話していたところであった。
同じことはピエール・ブルデューの文化資本論についても言える。
『ディスタンクシオン』もまた、(読んだ方、あるいは読もうとして挫折した方は喜んで同意してくださると思うが)高いリテラシーを要求するテクストである。
おそらく、ブルデュー自身、フランス国内のせいぜい数万人程度の読者しか想定していない。
自説が理解される範囲はその程度を超えないだろうと思って書いている(そうでなければ、違う書き方をしたはずである)。
だが、「階層下位に位置づけられ、文化資本を持たない人には社会的上昇のチャンスがないように設計された社会」の構造を解明したこの書物が十分な文化資本を持たない人に対しては事実上開かれていないということにブルデュー自身はどれほど自覚的であったのだろうか。
むろん、私はバルトも、ブルデューも、その知性と倫理性を高く評価することに吝かではない。
けれども、彼らがエクリチュールによって階層社会が再生産されるプロセスを鮮やかに分析しつつ、その階層社会で下位に釘付けにされている読者たちには理解することのむずかしいエクリチュールを駆使してきたことはやはり指摘しておかなければならないと思う。
階層社会の本質的な邪悪さは、「階層社会の本質的な邪悪さ」を反省的に主題化し、それを改善する手立てを考案できるのが社会階層上位者に限定されているという点にある。
「社会的流動性を失った社会」を活性化できるだけ知的にも倫理的にも卓越した精神が同一の社会集団から繰り返し登場することによって、結果的に文化資本は少数集団に排他的に蓄積してゆき、社会的流動性は失われる。
この「トリック」は階層社会の内部にいる限り、前景化しにくい。
さいわい、日本社会はフランスほどには階層化されていない。
文化資本や社会関係資本はすでに一定の社会的層に蓄積されつつあるけれど、まだそれは「階層」というほど堅固なものにはなっていない(と思う。希望的観測だが)。
私は文化資本の排他的蓄積を望まない。
私は水平的にも垂直的にも流動性の高い社会を望む。
そのためにも、バルトやブルデューのようなすぐれた知性のみが生み出しうる卓見をできるだけ多くの人々が「リーダブルなかたち」で享受できることを望むのである。
エクリチュール批判は「自らがいま書きつつあるメカニズムそのもの」を対象化しうるエクリチュールによってなされなければならない。
はたして、それはどのようなエクリチュールであるのか。
自分たちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語、自分たちが分析のために駆使している言語の排他性そのものを解除できる言語。
そのような不可能な言語を私たちは夢見ている。