2010-07-22 09:33:41雪子
反「独立自主」
このテーマについては、もうかなり長いこと考えていて、いつかちゃんとこれまでに考えたことをまとめておきたいと思っていました。中国語でまとめるのは疲れるので、うまくできるかどうかわかりませんが、まず日本語でちょっとメモを作ってみようと思います。
以前私の周りでは、「なんでも一人でできること」に高い価値が置かれていました。洋服も、靴も、音楽も、旅行も、家事全般も、なんでも「一人で自分のセンスに基づき、自分の責任によって選択する。そして、その結果は一人で独占的に享受することができる」というのが、「能力が高い」「かっこいい」人と捉えられていたと思います。
そして、そういう価値観を共有している人の輪の中にあって、私は、周囲の人から、「なんでも一人でやれよ」と命令されると同時に、「どうせお前なんかばかだから一人でなんか何もできないんだよ」という2種類のメッセージを受け取っていました。
ひょっとしたら、そういうメッセージを私に向けて発していた人たちは意識的に私を傷つけようとしていたわけではないのかもしれません。ただ、「女はバカな方がかわいいし、自分よりバカであって欲しい」と願うことが、人間関係を損なうことになると気づかなかった人たちだったのだと思います。
そうやって、身近な人から常にばかにされ続けていたので、20代から30代初めの私はとにかく相手を見返したくて、必死でもがいていました。で、努力の結果、一人で外国に行き、勉強し、外国語を習得し、友達にもめぐまれ、仕事にもめぐまれるようになると、今度は周囲から「お前は自分勝手だ」と非難されるようになりました。
でも、いつだって「一人で何でもやれ、金も自分で出せ」って言ってたじゃない。私は不満でした。
今振り返ってみると、「オレは『独立自主的女人』が好きだ、だからお前もそういう女性になれ」って言ってた彼らは、ただの面倒くさがりで、単に私のことで時間やお金を奪われるのを疎ましく思っていたから、上記の言葉を方便として使っていたのだろうと思います。本人たちは無自覚だったかもしれないけれど、結果的にはそういうことなんじゃないかなと思います。今となってみれば、そういう人たちが適当に言った言葉を真に受け、真剣に悩んだり、努力したことがあほらしく感じます。もちろん、彼らに対する怒りを原動力として、留学したり、一生懸命勉強したことすべてが無駄だとは思いません。でも、今では彼らの考え方は間違っていると思うし、そういう人とは関わりあいになりたいとは思いません。
本当に相手のことを好きだったり、尊敬していたら、自分が良いと思うもの、大切なもの、楽しい時間を相手と共有したいと思うのではないでしょうか?日本にいたときは分からなかったけど、台湾でさまざまな人と知り合う中でそう強く感じるようになりました。そうじゃなかったら、一緒にいる意味なんてないじゃないと思うのです。
以前の同僚と、日本に帰るたびに会います。何年か前、私がフェミニズムを学び始めたばかりのとき、息巻いて男性批判をしたとき、彼女が―彼女は早くにお父さんを亡くされています―一言、「でも、男の人ってもろいよね」と言いました。私はそのとき、その言葉をうまく受け止められませんでした。でも、最近、少しずつわかるようになってきたと思います。猫や亀、猫パパと暮らしはじめ、自分も妊婦になり日々感じるのは、生きているものはみんな結構もろくて、日々常に他者からの気遣いやケアを必要としているということです。それは、一見どんなに「独立自主」を達成しているように見える人でも一緒です。
それに、家族や恋人から「独立」しているようにみえる人でも、ひょっとしたら、メディアの情報や企業のコマーシャルに深く依存していて、「自分で」選択しているように見えても、結局はメディアや企業の情報操作にその生活スタイルを制約されているかもしれません。だとしたら、「何でも自分で決めて、自分のお金で購入している人」イコール「独立自主の人」とは言い切れないと思います。こういう点から見たら、むしろ常に家族や友人と限られたりソースを分かち合って暮らしている人の方が、メディアや企業の情報操作から自由でいられるかもしれないのです。だから、どっちがより自主的な生活をしているか、一概には言えないということです。
世の中の主流の価値観では、少しでも自分の価値を高めること、今よりも強くなること、今よりも一人で何でもできること、今よりももっとお金持ちになることが私たち一人一人に求められています。でも、それって生き物の特性に反していると思うし(人は赤ちゃんのときは絶対的な弱者だし、年をとればまた弱者になります)、そういう価値観を信じて努力しても、単に資本家や権力者に奉仕するだけなんじゃないの、と思います。それよりも、人(他の生き物も)は誰でも弱い部分や欠点を持っていて、常に適切なケアを必要としている存在だということ、いま、ここでは一見他者の援助を必要としていないように見える人でも、過去・未来にはかならずケアの必要な存在にんるということをしっかり見据えて、身の回りの人のケアにより多くの時間をかけるようにしたほうが良いんじゃないかなと思います。日本では、気遣いやケアは女性の義務で、台湾では、外国人低賃金労働者の仕事になっています。でも、本当はそういうふうに、ケアされる人とケアする人をはっきり分けてしまうのは、お互いにとってとても不幸なことだと思います。一人一人が、資本主義に貫徹している無時間モデルを反省し、時間感覚を取り戻し、お金儲けとは関係のないところで、ケアや気遣いができるようになったら良いのにな、と思っています。
以前私の周りでは、「なんでも一人でできること」に高い価値が置かれていました。洋服も、靴も、音楽も、旅行も、家事全般も、なんでも「一人で自分のセンスに基づき、自分の責任によって選択する。そして、その結果は一人で独占的に享受することができる」というのが、「能力が高い」「かっこいい」人と捉えられていたと思います。
そして、そういう価値観を共有している人の輪の中にあって、私は、周囲の人から、「なんでも一人でやれよ」と命令されると同時に、「どうせお前なんかばかだから一人でなんか何もできないんだよ」という2種類のメッセージを受け取っていました。
ひょっとしたら、そういうメッセージを私に向けて発していた人たちは意識的に私を傷つけようとしていたわけではないのかもしれません。ただ、「女はバカな方がかわいいし、自分よりバカであって欲しい」と願うことが、人間関係を損なうことになると気づかなかった人たちだったのだと思います。
そうやって、身近な人から常にばかにされ続けていたので、20代から30代初めの私はとにかく相手を見返したくて、必死でもがいていました。で、努力の結果、一人で外国に行き、勉強し、外国語を習得し、友達にもめぐまれ、仕事にもめぐまれるようになると、今度は周囲から「お前は自分勝手だ」と非難されるようになりました。
でも、いつだって「一人で何でもやれ、金も自分で出せ」って言ってたじゃない。私は不満でした。
今振り返ってみると、「オレは『独立自主的女人』が好きだ、だからお前もそういう女性になれ」って言ってた彼らは、ただの面倒くさがりで、単に私のことで時間やお金を奪われるのを疎ましく思っていたから、上記の言葉を方便として使っていたのだろうと思います。本人たちは無自覚だったかもしれないけれど、結果的にはそういうことなんじゃないかなと思います。今となってみれば、そういう人たちが適当に言った言葉を真に受け、真剣に悩んだり、努力したことがあほらしく感じます。もちろん、彼らに対する怒りを原動力として、留学したり、一生懸命勉強したことすべてが無駄だとは思いません。でも、今では彼らの考え方は間違っていると思うし、そういう人とは関わりあいになりたいとは思いません。
本当に相手のことを好きだったり、尊敬していたら、自分が良いと思うもの、大切なもの、楽しい時間を相手と共有したいと思うのではないでしょうか?日本にいたときは分からなかったけど、台湾でさまざまな人と知り合う中でそう強く感じるようになりました。そうじゃなかったら、一緒にいる意味なんてないじゃないと思うのです。
以前の同僚と、日本に帰るたびに会います。何年か前、私がフェミニズムを学び始めたばかりのとき、息巻いて男性批判をしたとき、彼女が―彼女は早くにお父さんを亡くされています―一言、「でも、男の人ってもろいよね」と言いました。私はそのとき、その言葉をうまく受け止められませんでした。でも、最近、少しずつわかるようになってきたと思います。猫や亀、猫パパと暮らしはじめ、自分も妊婦になり日々感じるのは、生きているものはみんな結構もろくて、日々常に他者からの気遣いやケアを必要としているということです。それは、一見どんなに「独立自主」を達成しているように見える人でも一緒です。
それに、家族や恋人から「独立」しているようにみえる人でも、ひょっとしたら、メディアの情報や企業のコマーシャルに深く依存していて、「自分で」選択しているように見えても、結局はメディアや企業の情報操作にその生活スタイルを制約されているかもしれません。だとしたら、「何でも自分で決めて、自分のお金で購入している人」イコール「独立自主の人」とは言い切れないと思います。こういう点から見たら、むしろ常に家族や友人と限られたりソースを分かち合って暮らしている人の方が、メディアや企業の情報操作から自由でいられるかもしれないのです。だから、どっちがより自主的な生活をしているか、一概には言えないということです。
世の中の主流の価値観では、少しでも自分の価値を高めること、今よりも強くなること、今よりも一人で何でもできること、今よりももっとお金持ちになることが私たち一人一人に求められています。でも、それって生き物の特性に反していると思うし(人は赤ちゃんのときは絶対的な弱者だし、年をとればまた弱者になります)、そういう価値観を信じて努力しても、単に資本家や権力者に奉仕するだけなんじゃないの、と思います。それよりも、人(他の生き物も)は誰でも弱い部分や欠点を持っていて、常に適切なケアを必要としている存在だということ、いま、ここでは一見他者の援助を必要としていないように見える人でも、過去・未来にはかならずケアの必要な存在にんるということをしっかり見据えて、身の回りの人のケアにより多くの時間をかけるようにしたほうが良いんじゃないかなと思います。日本では、気遣いやケアは女性の義務で、台湾では、外国人低賃金労働者の仕事になっています。でも、本当はそういうふうに、ケアされる人とケアする人をはっきり分けてしまうのは、お互いにとってとても不幸なことだと思います。一人一人が、資本主義に貫徹している無時間モデルを反省し、時間感覚を取り戻し、お金儲けとは関係のないところで、ケアや気遣いができるようになったら良いのにな、と思っています。