日本雑感(四)「外国文学」
「外国文学」:
1日付の朝日新聞に内田樹のコメントが紹介されていました。1980年代、多くのフランス文学研究者が日本を離れフランスに向かいました。その結果、日本のフランス文学は衰退したのです。以前の研究者は、外国の知識を日本に紹介しなければという使命感をもっていたのですが、今は研究者は自己利益の追求のために研究をしているのです。…と、だいたいこんな感じのコメントでしたが、これは私が台湾にいて日本のアマゾンのページを眺めていて感じることと重なります。
たとえば、フランスで大ヒットしたという文学作品が、台湾でも大ヒットするのに、日本では翻訳本が出版されても大いに話題になる、ということがないような気がします。もちろん、日本には台湾よりも多くの作家がいて、選択の幅が広いから、わざわざ外国文学に楽しみを求めなくても、それなりに充実した読書体験ができるということもあるかもしれません。自国の作品を読むだけでも豊かな読書体験ができるというのは、世界中でもごく限られた人々に与えられたある種の「特権」だと思います。そして、それは一人一人の読者によって維持されていかなければならないと思います。
しかし、やはり、国境も時間も人種も民族も宗教も性別も、とにかく何から何まで異なる人々の物語から、自分と共通する体験や感情を見出すという読書体験もとても大切だと私は思うのです。だから、海外でそれなりの評価を受けている文学作品がまったく注目されず、巷は日本史モノばかりあふれかえっているという状況には、違和感を持ちます。書店は売り上げを伸ばさなければいけないから、日本史ブームに合わせて歴史物を前面に出す必要があるのかもしれません。でも、書店には、来店者を啓蒙するという使命もあるはずです。もっと、私たちの盲点をついてくれるような、そういう本の配列をしてくれる書店があればいいのにと思います。まあ、利益と効率の追求が最優先となっているような書店にそのようなことを要求しても無理な話でしょうが…。
私自身は、今年はもっとたくさんの外国文学の作品を読みたいと思っています。一昨年は123冊、昨年は124冊本を読みました(でも絵本で冊数を稼いだので、総ページ数は2008年には遠く及びませんでした。)。今年もどんなことがあっても最低100冊は本を読みたいと思います。そして、なるべくたくさんの外国の作家の作品を読みたいと思います。外国の友人に勧められたもの、国境を越えて歓迎されているものをたくさん読みたいです。一人で「外国人をしている」ときには、日本人が国内在住の日本人向けに書いたものよりも、国境を超える力をもっている作品のほうがずっと共感しやすいのです。
村上春樹が翻訳したGrace Paley『最後の時間のすごく大きな変化Enormous Changes at the Last Minute』は偶然書店でみつけた本ですが、すぐに引き込まれてしまいました。ロシア系ユダヤ人移民のアメリカ人の女性なんて、私とは何の共通点もなさそうですが、読むと痛快な部分がたくさんあって、いいなあと思います。同じ意地悪でも酒井順子や香山リカには全く共感できないのに、共通点のほとんどないGrace Paleyの作品には共感できるのです。
今年はまず、少なくとも村上春樹が翻訳した作品は読破したいです。それから、台湾で中国語訳されているものにも挑戦したいです。
でも、こういう読書体験は、身近な誰かとその喜びを分かち合うことができないのが残念です。あれだけ売れた『1Q84』ですら、まともに感想を話し合える友達なんてたった一人だけなのですから。それだけではなく、ろくに本も読まない人から「あなたの中国語はかなり進歩したようね」とか「私の台湾語が聞き取れないなら勉強したら?」なんて言われた日には、「なぜ私はこんなまともに本も読まないような人から馬鹿扱いされなくちゃいけないのか」と思います。
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