誰有權解讀他們的夜祭?
夜祭を見に行きました。私に強烈な印象を残したのは、儀式そのものよりも、儀式をまなざし、評論し、写真を撮影する「専門家」や、「原住民の血統をもつエリート」、彼らに付いてやって来た「他者をまなざすこと、珍しいものを収集すること」を自らに付与された当然の権利だと考えている人々の、儀式や現地住民に対する態度でした。
私たちは外来者なのに、なぜ、彼らの神聖な場所を現地の人々に断りなく写真をとることができるのでしょうか?なぜ、私たちのすぐそばに現地住民の老人がいるのに、彼に挨拶一つせずシャッターを切り、彼らについての知識を専門家から聴かなければならないのでしょうか?
儀式についても同じことが言えます。カメラを構えている人たちは、「良い写真」を撮るのに夢中です。もちろんその中には強い使命感をもって写真撮影している人もいるでしょう。でも、私も含めた撮影者の心の中に「珍しいものを撮影という行為を通じて自分の手元に残しておきたい」という気持ちがゼロだったとは思えません。現に、多くの撮影者は、自分が撮影したいだけ撮影すると、儀式の終わりを待たずにさっさと帰っていきましたし、儀式が行われている最中にもかかわらず、ずっと脇で携帯電話でしゃべっているエリート女性もいました。
このような態度は、「欲しい物を欲しいだけ手に入れたら、あとはどうでも良い」と言っているように、私には見えました。このような態度が、初めてこの地をおとずれた外来者として、失礼ではない態度とは、とても思えませんでした。そして、申し訳ないけれど、私は彼/彼女たちに深い憤りを覚えました。
でも、周囲の人からは、私の不機嫌な態度は、単に「おばさんが、若くて美人なエリートに嫉妬している」と映ったことでしょう。そうやって、この中年外国人女性はまたしても、「幼稚で、非理性的で、分別をわきまえない」存在として処理されていくのです。
外来者として、闖入者として、分からないなら分からないなりに、現地の人たちを尊重する態度をもって儀式に参加することは不可能なのでしょうか?エリートなら、専門家なら、原住民の血統があるなら、現地住民に代わって大声で発言する権利があるのでしょうか?私は、誰がなんと言おうと、そのような考えには同意できません。
今回良く分かったのは、血統的にマイノリティであったとしても、自らの発言の位置を当然と見なし、他者への想像力が欠如している者の発言は聞くに堪えないということです。そういう意味では、今回、この夜祭に連れて行っていただいたことには深く感謝しなければなりません。
ちなみに、現地住民の方は、私という闖入者に対して、とても寛大に、暖かく接してくださいました。私が怒りに震えて一人で立ち尽くしているときに、目の前でいのししの肉を丸焼きにしている住民の方たちが、「一緒に食べましょう」と言ってくれたのです。私は「私はただの見学者ですから」と遠慮しましたが、「もうここまで来ちゃったんだから、食べていきなさいよ、いのししだからって怖くないよ」とみなさんで勧めてくださいました。
私の中で、現地住民の寛大さ、暖かさと、外来エリートの無礼さは、強烈な対比を構成しました。
儀式の見学に連れて行っていただいたことには深く感謝していますが、私は、この夜に感じた外来者(私も含む)に対する深い怒りと疑問について、生涯忘れることはないと思います。
参考