誰的空間?
最近つくづく人と空間の関係はとても興味深いものだと思います。
ここは某科学技術大学の図書館の前の空間です。ここの学生に「図書館はきれいだよ」と教えられたので、空き時間を利用して、一人で行ってみました。
私が訪ねたのは週末でしたから、平日の日中、学生たちがこの空間をどのように利用するのかはわかりません。わかったのは、ここの建材は、他の校舎よりも「高級」であることと、両脇の一角を除いて、立ち止まることができる場所がないことです。
学校は巨費をかけて、広くて、床が平らで、雨風をしのげ、通風も良い空間を作り出したのに、学生にはこの空間にとどまってもらいたくないようでした。もちろん、図書館の前で騒いで、静かに本を読んでいる人の迷惑になるような行為をすることはいけません。でも、ガラスを防音ガラスにして、この空間に比較的軽い丸テーブルと椅子を置いて、学生が本を読んだり、休憩したり、議論をしたりする場所として供することは不可能なのでしょうか。あるいは、図書館の閉館時間には、この空間をダンスや太極拳の練習をする空間として提供することは不可能でしょうか。学校の敷地内のあちこちに、学生が集まっておしゃべりすることのできる場所があることは、学生のキャンパスライフをより豊かなものにするためにはとても重要だと思うのです。人が集まればごみもでます。汚れるでしょう。でも、それは、学生のアルバイトなどを雇い、毎日ちゃんとごみを拾ってお掃除すれば済むことではないでしょうか。
これは図書館の前から正門に向けて広がる空間です。この学校の校舎は、この広大な広場の両脇にあります。一度平日に訪問したことがありますが、ここにとどまる学生もあまり多くなさそうです。どうやら、この空間は、学生をここにとどまらせるために設計したものではなさそうですね。
私は本を読むのでも、人の話を聞くのでも、そして、ある空間と向き合うのでも、必ず注意深く観察することがあります。それは、「この本/人/空間のメッセージは私を対象としているか」ということです。
内田樹は『レヴィナスと愛の現象学』において、次のように述べます。
テクストには通常「宛先」がある。私がテクストを読むとき、その「宛先」はとりあえず私一人である。私が読む必要のあるテクストは、その「宛先」に私が含まれているもののことであり、「宛先」に私が含まれていないような本は、たぶん読む必要のない本である。私はそういうふうに考えることにしている。ある本が自分宛てかどうかを見分けるには方法がある。学術論文の場合は、どこかに「周知のように」という言葉があって、そのあとに「私の知らないこと」が書いてあった場合は、それは「私の知らないことが周知であるような世界の住人」宛てのものである。私はそこでただちに読書を停止することにしている。(5)
この部分を読んで、ああ、私がやってきたことは内田樹と同じことだと思いました。私は私(のような属性を有する者)を排除するような場所には無理をして長居をしたりしないようにしています、たとえその場所がメディアでどれほど誉めそやされていても。私は、自分の五感をフル活動させて、自分を受け入れる準備のある場所を捜し求めています。「我慢しない」ということは、わがままなように見えますが、実はとても面倒で困難な作業だと思います。嫌いな場所を嫌いという場合には、きちんと理由を説明する必要が生じますし、空間の改善が必要な場合は自ら行動を起こさなければなりません。説明責任と労力を提供する責任が生じるのです。
とまあ、私はこんな感じなのですが、世の中には、私と異なる志向の人もいます。それは、「自分をかたくなに拒否、排除している空間」を欲望する人たちです。
たとえば、この写真にあるような空間は、私たち個人がこの空間にとどまることを拒否しています。この空間は、学校経営者の威信を示すためのものであり、学生に使用させるためのものではありません。しかし、経営者以外の人物でも、この排他的な空間を「良い空間」「好きな空間」として欲望する人はいるのです。自分もいつか「お金持ちになって」「高級で」「大きな」空間を所有したいという欲望を持っている人たちは、この空間をみて、「いいなあ」と思うことでしょう。そのほかにも、「学生がキャンパスにとどまると余計な仕事が増えて困る」と考えている人たちにとって、この空間デザインはとても「良いもの」と映るでしょう。
私は以前小学校の教師でしたから、学生を管理する立場の人の発想も想像することができます。そして、以前の私は「自分が受け入れられているか否か」よりも、「良いと認定しなければならない空間はどういうものか」という「正解」ばかり求め、その空間から排除されていても、「正解の空間」を好きでい続けなければならないと思っていました。
でも、長期間にわたって「渇望するものに拒否される」状態が続くと、人は壊れてしまうと私は思うのです。力のある人たちは、彼らに利益をもたらす空間を愛する空間を私たちにも愛するよう指示します。でも、その空間は、もともと私たちのためにデザインされたものではないので、私たちはいつもその場所から排除されているのです。こういうダブルバインド(「欲望しなさい」「でも君を受け入れないよ」)の状態が、いちばん殺傷力が高いと思うのです。
私はこのダブルバインドに深く傷つけられてきました。ですから、自分の身を守るために、生き延びるために、このような矛盾するメッセージを発するありとあらゆるものを拒否することに決めたのです。高級でなくてもいい。お金持ちに見えなくてもいい。人から尊敬されなくてもいい。本当に、自分宛にメッセージを発している書物、人、空間に囲まれて生活できればいいと思ったのです。
自分宛にメッセージを発しているものと、そうでないものを見分けるのは、簡単なようで難しいです。相当時間をかけて、じっくりと観察しなければなりません。他人から見れば、効率的ではないし、単なる時間の浪費にみえるでしょう。でも、この効率の悪い作業を経ることなくして、分別する能力を身につけることはできないと思います。
この空間の前方には、蒋中正、そしてその前には孫中山の銅像が立っています。つまり、この学校は、正門をくぐると、中軸線にそって、孫中山→蒋中正→校長のオフィスと並んでいるのです。聞くところによると、校長先生のオフィスは、図書館の高層階の真ん中にあるそうです。
この文章の続きはここでは発表しません。あしからず。
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