宮崎駿和漢生病療養院【樂生】
以下文章是宮崎駿談對全省園的居民和那個空間的看法,我讀了這篇文章會覺得,他對全生園的感受跟我對樂生的感受相當相似。
很棒,有人已經把它翻譯了,我早上收到一封信,以下貼中譯版和原文!
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宮崎駿是IDEA JAPAN漢生病大使,日本東京全生園就是豆豆龍故事的靈感來源
樂生院本身就像是龍貓森林及魔法公主捍衛自然生態的真實宮崎駿世界
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宮崎駿的祈禱
honkwun 在 天空部落 2007-03-24 01:51:34
全生園的燈火
我常在禮拜天的時候散步。走一走大概不要兩三個小時的時間,就可以有遠離工作的感覺;哪怕只走個三十分鐘,也能把心思放空,然後隔天又神清氣爽地繼續回到桌子上工作。一個禮拜要是都不走路,便覺得又漫長又沉重;如果能稍微去散個步,就能持續工作下去。
在我散步會經過的地方當中,有一道柊樹所生的樹籬,位在國立漢生病(俗稱麻瘋病)療養院──多摩全生園那裡。全生園的門戶是開放的,而且樹籬有被修剪過,矮矮的很平易近人;可是之前我一直猶豫著到底要不要進去看看。現在大家對漢生病的了解已經跟常識差不多了,它感染力弱,也不是什麼不治之症;只是政府的隔離政策讓偏見與恐慌深植人心,對根絕這種疾病毫無幫助,沒有任何助益可言。
但我並沒有好好反省、覺悟,想想自己是否擁有直視這片樹籬之後的資格;純粹因為好奇而想走進去看看,這點說實在很不禮貌。
我第一次走進全生園是在魔法公主最忙的時候。那時工作很重,又沒進展,就算散步也還是間歇性地感到不安,心想不把轉個不停的腦袋給靜一靜是不行的。就在這麼煩擾的時候,好像有某個契機指引我;在初春的慵懶午後,我突然想走到樹籬之後看看。
一開始吸引我目光的,是並排的兩行巨大櫻樹。眼前被夕陽染黃的枝幹閃耀著光芒,樹梢上的枝芽往高高的天空伸展。
這是怎麼樣的一股生命力啊,我被震攝了。有種幾近於畏懼的情感困住了我,那天我因此無功而返。
過了一個禮拜我再到全生園去,心情依然畏懼,連資料館那裡我都是屏息而入,但卻有意料之外的收穫。
沉默之中,漢生病以及要面對它的人們的紀錄,一字一句地攤在我們眼前;其中有著人類最為高貴的情操,也有社會最愚蠢的一面。
看到這些紀錄,與其說被走過這段歷史的人們所打動,不如說內心被他們生存的樣貌留下了印記。是怎樣的一種歡喜或笑容,能在這般苦難中存在。對於渾渾噩噩的眾生來說,恐怕沒有像全生園這樣,可以把超脫苦難的意志看得透徹的地方。
(我感到:)不能草率地活下去。
就像其他經由介紹、體悟到這個道理的年輕人一樣,我的心情在看過資料之後坦率了起來,然後走出了資料館。
從此之後,全生園對我來說就是一個很重要的地方。禮拜天散步的時候,我開始走到園裡面去。園裡總是又乾淨又安靜,裡面的人也都溫和有禮。有時參觀的訪客蠻吵雜的,我總狐疑地想,他們是不是有什麼地方傲慢了些。
在園內的一角,留著許多不再使用的建築物,包括病患本身的宿舍、被帶離病患身邊的小孩住的地方,或者在北条民雄的和歌──「望鄉歌」中的中小學分校,以及圖書館。這些病患生活過的地方,照理說應該充滿著悔恨和悲哀的氛圍,卻也沒有一點可怕的感覺;站在這裡,只覺得有種嚴肅的、溫暖的心緒湧上心頭。不管看哪一棟建築,都有這種好的感觸。
我想,這些從昭和時代初期建好的這些建築,都保存地相當好。同時代的建築,在東京幾乎看不到了。聽說這些都是居民當中的工匠所建造的,就連用石頭鋪設的道路,也都是為了受泥濘所苦的人辛苦做的,是大家齊心協力才鋪好的。能保存這些建築,實在是件好事。不管就公衛史或建築史來說,它們都具有很深刻的意義。
每當深夜的時候,在從工作地點回家的路上,我都可以從柊樹形成的樹籬中間,看到全生園的燈火。為此我常感覺到一種深深的眷戀;就像電影散場時,自己覺得當下身在一處聖地一般。
現在日本政府好不容易對這些病患認了錯、謝罪,能這樣真的很好。我曾遙想過,這些除了病患之外別無身份的人,在被親人、子女和朋友遺棄的情況下,還能堅強地不發一語時──那私下偷偷落淚的情景。
宮崎 駿の祈り
全生園の灯
日曜日は歩くことにしている。歩くといっても、二、三時間の散歩に過ぎないのだが、仕事と距離をとるにはいい。三十分も歩くと、いつの間にか頭がカラッポになっていく。その効果は、次の日机に向かったとたんはっきりした。歩かなかった週は長く重く、歩けば週の中頃まではなんとか持ちこたえられた。
自分の散歩コースの途中に、柊(ひいらぎ)の生け垣にかこまれた場所がある。ハンセン病療養所の国立多摩全生園である。門は既に開放され、柊の生け垣は低く刈りそろえられていたが、僕は中に入るのをためらっていた。ハンセン病については常識程度に知っていた。感染力はとても弱く、もはや不治でもなく、政府の患者隔離政策は世間に恐怖と偏見を植え付けただけで、病気の根絶にはまったく寄与しなかったことなど。
しかし、生け垣の中を直視する覚悟と資格が自分にあるとは思えなかった。好奇の対象にするのは無礼すぎる。
僕がはじめて全生園に足を踏み入れたのは、「もののけ姫」の最中だった。仕事が重く、はかどらず、歩いても間歇的に不安がつきあげて来て、頭は堂々めぐりをやめようとしない。何がきっかけだったのか、僕は突然思い立って、早春のおそい午後に生け垣の中へ入っていった。
最初に目をひかれたのは、巨きな桜の並木だった。幹は西陽(にしび)に染まって輝き。芽吹き前の梢ははるか高く空に展(ひろ)がっていた。
なんという生命力だろう。僕は圧倒され、畏(おそ)れに近い感情におそわれて、その日はそれだけで引き返してしまった。
次の週も僕はそこへ行った。資料館にも息をひそめて入った。予想をこえていた。
沈黙の中に、ハンセン病と向きあった人々の記録がつづられている。究極の人間の高貴さと共に、社会の愚かさもあわせてそこにあった。
何より心を打たれたのは、たしかに生きた人々の営みがしるされていることだった。どんな苦しみの中にも、喜びや笑いも又あるのだ。曖昧になりがちな人間の生が、これほどくっきりと見える場所はない。
おろそかに生きてはならない。
先達に諭された若者のように、素直な気持ちになって僕は資料館を出た。
それから、全生園は僕の大切な場所のひとつになった。日曜の度に園内を歩いた。そこはいつも清潔で静かで、住む人々は皆おだやかで慎ましやかだった。外から訪れる人達の方がさわがしく、どこか傲慢な感じがしたのは僕の思い過ごしかもしれない。
敷地の一角に、使われなくなった建物達が遺されている。入園者の宿舎、親からひき離された子供達」の少年少女宿舎。北条民雄の短歌「望郷歌」の舞台となった分教場、図書館。人々の無念と悲しみがしみ込んでいるはずなのに、少しもおそろしい感じがしない。その前に立つと、厳粛なあたたかい想いが湧き出て来る。どれもいい建物なのだ。
昭和のはじめに建てられたのに、よく残ってくれたと思う。同時代の建物は、東京からほとんど姿を消してしまった。聞けば入園者の大工さん達が建てたのだという。しっかりした敷石も、ぬかるみに苦しむ人のために、みんなで力を合わせて敷いたのだった。この建物達が、ここで保存されたらどんなにかいいだろう。感染症の歴史のためにも、建築史の上からも、とても意味があると思う。
深夜、仕事からの帰り途に、柊の隙間に全生園の灯が見えると、僕は無性になつかしさを感じるようになっていった。映画が終わる頃、そこは自分にとって、一種の聖地になっていたのだ。
日本国政府が、ようやく患者さん達に謝罪した。僕はよかったと思った。そして、患者だった人々だけでなく、親や子や、友を連れ去られ沈黙を強いられた人々が、日本のあちこちで秘かに流している涙を想った。
宮崎 駿 : 「全生園の灯」 : 朝日新聞 : 2002年4月20日朝刊
第一張:
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第二張:
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一粒の麦として平松 讓二(同志社女子中高聖書科教諭)
「千と千尋の神隠し」とハンセン病療養所との関係
「トンネルの向こうは不思議の町だった。ありえない場所があった。ありえない事が起こった。人間の世界のすぐ脇にありながら、人間の目には決して見えない世界。千尋が迷い込んだのは、そんな人間が入ってはいけない世界。驚きと不思議の町で千尋が見るのは、大きな無力感と小さな希望。」というキャッチフレーズで始まる映画があります。
主人公の千尋(本名:荻野千尋)は、10才の少女で、ごく普通の現代っ子です。両親と一緒に都会から郊外に引っ越す途中、一家は不思議な空間に迷い込みます。その空間は、実は人間が来てはいけない世界でした。そこには、日本に棲む八百万(やおよろず)の神々たちが疲れを癒すためにやって来る湯屋がありました。湯屋は湯婆婆という魔女が支配しています。この世界では人間は、消えてしまうか動物になるかしかありません。生き残るために、また豚にされてしまった両親を救うために、千尋は「千」という名前で、湯屋で働き始めます。一生懸命働く過程で様々な経験をして、千尋の中の「生きる力」が目覚め始めます。
この話は、映画監督の宮崎駿によって描かれました。宮崎監督の映画は不思議です。どの作品を見ても、そこに大きなメッセージが隠されています。実はこの映画「千と千尋の神隠し」は、宮崎監督がよく散歩に出かけるある場所が舞台となっているのです。それが、東京都東村山市にある国立ハンセン病療養所多磨全生園です。多磨全生園は甲子園球場の何倍もある広大な敷地にあり、そこには宮崎監督に映画「トトロ」の森をイメージさせた大きな森が存在しています。今では多くの一般市民が散歩などで行き交う療養所ですが、以前はまったく違いました。そこは死後の世界でした。
宮崎駿監督が描いたハンセン病療養所
現在、日本全国に13の国立療養所があります。そこはこの日本の社会では生きることを許されない、ハンセン病を病んだ人々が集められた死後の世界でした。彼らは療養所で人間扱いされることなく、まさに「座敷豚」とさげすまれて呼ばれていたのです。だから、千尋のお父さんとお母さんは「豚」になったのでしょうか。療養所ではみんな自分の名前を奪われます。あたりまえのように、偽名を名乗らされるのです。本名を名乗ると家族に迷惑をかけてしまう、そんなことをあたりまえのように言われ、自分の大切にしてきた本名を奪われます。千尋も「千」と名乗りましたね。
まだまだ不思議なところがあります。療養所の全ての患者は働かなくては生きていくことができないのです。全員が強制労働をさせられるのです。それが原因となって、多くの患者が命を落としていったといいます。「千」も湯屋で働かされましたね。働かないと、そこで生きてゆく資格がないからです。そこには不思議な人たち(生き物)がいました。顔のない人、手が6本もある人(釜じい)、蛙男(青蛙)、みんな姿が変わっていくのです。そして、人間でありながら人間として認めてもらえない、死んだも同然の死後の世界があるのです。それが、日本のハンセン病療養所の現実です。
私自身、そんな多磨全生園と関わりを持つようになって今年で9年になります。そして、毎年同志社女子高校の生徒たちを多磨全生園に連れて行くようになって、今年で6年目になります。
さて、そんなハンセン病を患っている人々と長く関わってきた同志社女子部の先輩がいます。その人の存在を知らないまま同志社女子大学を卒業してしまうことは、とても残念なことです。その人物とは、井深八重さんです。同志社女子部130周年を記念するこの年、この卒業生の思いに心を向けたいと思います。
文章來源:
http://www.dwc.doshisha.ac.jp/campus_info/chapel/chapel130/01.html
圖片來源:
http://images.google.com/imgres?imgurl=http://www.lili.cc/girl/mov/cat/009.jpg&imgrefurl=http://bbs.zol.com.cn/index20061024/index_187_12574.html&h=375&w=500&sz=57&hl=en&sig2=xtsSOFXdkRfjvojOKmJVxQ&start=11&um=1&tbnid=HLE64wchMwgReM:&tbnh=98&tbnw=130&ei=EgYERuzjIYq4qgP88qT3Aw&prev=/images%3Fq%3D%25E9%25BE%258D%25E8%25B2%2593%26svnum%3D10%26um%3D1%26hl%3Den
今天我看了「千と千尋の神隠し」。如果不是觀看前拜讀了宮崎導演和平松老師的文章、我想我只會認為這是一部單純的虛構動畫電影、雖然影像製作得相當逼真也感人。剛剛我又看了一次有關雪子桑所寫的樂生院文章。我了解了這部電影的真諦。
老實說第一次閱讀尚儒桑的文章時、我以身在日本的台灣人為他感到驕傲也敬佩他。
我就讀的大學在新莊、二十多年前的我完全沒留意關心過樂生院的存在、就現在的我感到非常難過。
我打算抽個時間去看看全生園。
東京多摩全生園見學記 by 高雄醫學院 尚儒
我的全生園經驗,要從早稻田開始,到東京的第一天,就先來到了名所,早稻田,在拜會平山郁夫基金會volunteer centre之後,正巧她們有一連串關於漢生病的seminar還有活動,活動主負責人西尾老師因為上課關係沒時間案內我他把我交給一群年輕人,她們正在辦一個叫做 橋 的 寫真展(攝影展)
在早稻田平山郁夫國際自願援助社團的攝影展理認識的一群年輕人,其中一位高橋史慶,教育部四年生,那天陪我整個看完寫真展(攝影展) ,高橋聽說我要自己去全生園,他自願擔任我的導覽員,於是隔天一早,我和另一位早大的台灣留學生 Nikkie,一起踏入全生園…
高橋已經來過全生園數次,跟院民也有接觸過,他社團到中國廣東省痲瘋村援助工作至少五次,她們是全都自費參加,每學期努力打工賺錢,兩個禮拜間去給那裡的病友蓋廁所,修路,做義工,她們影片中,看到人間溫暖不會因為語言隔閡還阻礙,真正立派的日本年輕人。
當我問到他去的原因,他回以一個超大陽光笑容
淺淺的回答說:因為快樂
就這麼簡單,可是能做到的人有幾個呢? (自慚..)
以前就聽說過很多日本學生的海外熱情,是我到現場了解之後,認識這些人,真正打從心理佩服這些日本學生。
從東京中心到多磨,不遠大概坐車半個小時就到了,以療養所的位置來說,是相當容易到的,西武新宿線久米川駅下車換乘西武bus往清瀬方向在全生園前下車就可以,其實叫全生園前bus stop有好幾個,我們是在資料館前下車
我想高橋應該是想讓我知道全生園的歷史,才出此決定,しかし
可惜工事中…
全生園的房屋大多已經翻修,看的出來都是近代的和洋式建築,後來有機會進到幾位歐寄桑的部屋,房間不是很大的和式建築,但是住一個人我覺得剛剛好,
裡面地板都是舖たたみ,後面有個人的小廚房還有一間廁所,沒有浴室 但是在園區裡有看見大浴場,猜測他們還是習慣公共浴場(我也很喜歡!) ,雖然部屋部大 但每間部屋外面都有相當大小的にわ(庭園) ,讓阿公阿媽們惹花捻草,我們故意跟正在種花的歐寄桑搭訕才混熟的,他一聽說我們是台灣人,好開心阿!
因為他小時後跟很多台灣人住在一起過,話匣子就打開了 (達陣成功) ,其實建築物的部分站整個全生園並不大,從資料館旁邊小路走進去,兩旁是大概兩個人可以合抱的櫻花樹,高橋一開始就先問我們,知道為什麼這裡的櫻花樹特別粗,
樹枝特別張牙五爪,原來他不說我還真不知道,日本的櫻花 就是每年賞櫻的那種,平時都是有人在照顧,讓她們長的直直的,瘦瘦的,等到開花時候,各各像美女一樣,全生園裡的患者,哪有能力如此,於是我們看到的才是真正的自然的櫻花樹林,就像森林一樣的地方,途中,我們可以任意穿越過一整片樹林,一個人影也沒有,感覺很像會有どどろ會出現的地方,結果後來就在歐寄桑的庭園或是房子外面看到どどろ的塑像,宮崎駿監督本人也來過 ,關係跟院民還很好呢!!
他的作品裡據說有漢生患者的腳色出現,就是取材這裡的人物故事與場景,全生園裡還有一間宮崎駿出錢維護的どどろ房屋(山吹舍) ,大変でしょう
在全生園裡我們走一二百公尺大概就會遇到一個紀念碑或牌的東西,例如,紀念過去的漢生患者因為不能回家,他們常常站在有一個因為挖井而堆成的土丘,望著故鄉,叫做「望鄉台」 還有過去養豬養雞的舍的遺址,也有紀念碑和牌子解釋說明當時勞動的情形,此外, 與樂生院相似的建築物,例如, 納骨塔, 是給死在全生園卻無法回故鄉埋葬的院民,高橋輕輕敲了靈前的小鍾 咚...
「是告訴他們我們來拜訪嗎??」 Nikkie問,同時我也這麼想
「不是的,是請他們的靈在鐘聲中安息」高橋回答
繼續走著我們來到了院區中的病院,高橋本人也沒有進去過,我們因為沒有事先予約,表明身分之後,是外科局長來帶我們「見學」(參觀) ,病院外表並不起眼 不如台灣醫院來的氣派,樓層也不高,我看是不會超過兩樓,病院入口雖不起眼 但是走道很寬敞,外科局長表示:這間病院因為是在全生園裡面,所以只照顧園區的住民,其實在日本已經不用患者來稱呼以治癒的漢生病人,他們都叫做「回歸者かいうくしゃ 」就是從漢生院禁錮回歸社會的意思,(我覺得這是很好的說法,一方面尊重他們不是漢生患者的事實,一方面也可以教育大眾,消除對傳染病的疑慮)。
目前日本療養院的病院都是這樣,每年少於十位新增患者,大多在沖繩接受治療 也接受巴西來的患者,所以他們主要是處理一些老人病和一般感冒及復健治療。
參觀過內科病房,我們來到身心科的ward,寬敞的大廳裡十幾位歐寄歐巴醬正在做身心語言復健,看起來有幾個人在吃午餐 驚鴻一瞥之中 我看見一位歐巴桑的手,跟林卻阿媽一樣,一模一樣的方式 當綁在手上湯匙落入碗裡那一剎那 兩行暖暖的同感淚流過我的臉頰,很快我回神到我們與外科長的對話,我必須認真才能聽懂他的案內,畢竟機會難得阿!!
外科的工作內容大概是以傷口照護為主,過去常做的截肢已經很少很少幾乎沒有(我想是照顧良好的關係吧) ,走著走著經過復健科的輔具室(就是做義肢的)還有運動治療室,也看到回歸者正在復健的情形,真正住院的也只有嚴重患者,
醫師的部分,有兼職,也有正職的,不過好像兼職的醫師為多(還要在確認)
畢竟人數不是很多,大部分人不是住在園區,就是回家跟家人住,目前約有250位患者,家人好像不能住進來,問到關於之後這間病院的經營 她們說隨著院民的凋零有可能會關閉,不過將來的事,還不知道。
因為速度很快我常常來不及拍照,有些可惜,大體上我覺得這是一間很實際的醫院,雖然外觀並不起眼,但是對於回歸者或是患者是很友善的空間,儘管全生園裡的花草已經多到不能再多,病院外圍還是種滿花草,有幾間大面落地窗設計以及某一些走道上方天窗設計,對陽光的進入,也是相當容易的,是一個友善而且實際的病院。
離開病院,走著走著看見一群人在打野球,全生園裡有野球場,我大為驚喜想說他們的回歸者還可以打野球,走進才發現不是(我有時候還真佩服自己的想像空間),我們坐在場邊觀站一會兒,
如果不是院民或是院方的人,外人也可以使用這空間嗎?
那些是附近社區的人,高橋說,也就是只要有申請就可以進來使用,
我認為是很不錯的措施,可以促進外界的人對於她們的認識,把全生園當作是大家的綠色公共空間,市民運動休閒養生的好去處,這是一個不錯idea,
後面還有遇到一個神奇的阿伯,先要我幫忙找他叔叔的國小,要我去讀那一段歷史,他叔叔日本時代在台灣教原住民,是一位高雄州國小校長,然後開始電我古文,還送給我們一人一本「菜根譚」加上他作的國畫手帕,那段插曲實在太神奇,到現在我還不敢相信。我也趁機參觀他的住所,偷偷幫他的有沖屁屁馬桶照相了,不過,這種廁所也是意料中的事拉!
雖然說全生園的房子很新很乾淨很整齊,外面有拿著Nikon相機的回歸者阿伯在拍花草,可是我覺得樂生院的才真有歷史的味道,難怪日人的紀念排上都寫「隱匿的史跡」可見他們知道自己已經失去很多,由此可見樂生院有多珍貴。從全生園的廣佈綠地和政府對她們的照顧,讓人家覺得很窩心,讓人想到人權森林的名詞,人權森林我在台灣聽過數百遍,但是在這裡所謂全生園人權森林的構想,我才真正看見,而且他們真的放一塊牌子寫著:將全生園變成人權森林的構想,如此看來,即使全生園已經做到現在這樣,日本人也還正朝這個方向在努力,人家有13間可以成為,我們的僅有那一間如果保不住將來一定會後悔的,さあ、皆さん頑張ろう。
尚儒 高雄 06.06.28
東京多摩全生園
院舍
小學生參觀多摩全生園
備註
全生園簡介
全生園是明治40年舊癩予防法制定後的基礎之下建立,明治42年為連合府県立療養所(公立療養所第一区府県立全生病院),收容関東1府6県:東京府・神奈川県・千葉県・茨城県・埼玉県・群馬県・栃 木県以及新潟県・愛知県・静岡県・山梨県・長野県的廣大範圍之內患者,同年10 月18日開始收容病人,當時叫做全生病院,先在這個名稱已不用。即使當時以全生病院為名,應該是醫療救濟為對象,然而,實際上是目的性地將流浪在社會漢生患者,從社會隔離收容的根絕的計畫。
1941年移交厚生省後才改名為国立療養所多磨全生園。
原文
当園は明治40年(1907年)に 制定された旧法である「癩予防法」に基づき、 明治42年(1909年)9月28日関東1府6県:東京府・神奈川県・千葉県・茨城県・埼玉県・群馬県・栃 木県および新潟県・愛知県・静岡県・山梨県・長野県の広範囲をカバーする連合府県立療養所として、公立療養所第一区府県立全生病院として発足し、同年10 月18日からハンセン病患者の入所受入れが開始されました。創立当時はぜんせいびょういんと呼ばれていました。この呼び方が今でも残っています。
当時は病院とは名ばかりで医療の対象どころか社会救済の対象にもならず、浮浪徘徊をつづける「浮浪らい」と呼ばれていたハンセン病患者を社会から隔離収容し根絶を図るのが、主目的であったと聞いています。
昭和16年(1941年)当時の内務省の中にあった厚生省に移管され、これにともない名称も国立療養所多磨全生園となり、現在に至っております。
http://www.wretch.cc/blog/happylosheng&article_id=4052058
其實該慚愧的是我啊
我透過台灣學生認識樂生、全生園
也透過他們才知道宮崎駿的作品和漢生病的關係
我原來居住的地方跟全生園也並不很遠
但我只聽過那裡有設施 但從來沒有去過
台灣學生讓我反省過去我對日本或台灣社會的看法
雖然他們比我年輕很多
但我從他們學到的很多很多東西喔
這篇的作者也是
我覺得他們真的很棒! 2007-03-25 12:09:00
syourin 桑:
>老實說第一次閱讀尚儒桑的文章時、我以身在日本的台灣人為他感到驕傲也敬佩他。
嗯嗯 我跟他是前年在樂生認識的 他真的是非常優秀的醫學生(他快要當醫生了)
他的朋友也很優秀 他們不僅會唸書 又會替別人思考 我覺得真難得
我很喜歡聽聽他們的經驗喔
>我就讀的大學在新莊、二十多年前的我完全沒留意關心過樂生院的存在、就現在的我感到非常難過。
不會啦 大部分的人最近幾年才「發現」樂生院 我們從現在開始試著了解它吧
>我打算抽個時間去看看全生園。
嗯嗯 我覺得妳很有「行動力」 這樣很棒!!
我暑假回日本的時候也想去參觀