2008-11-20 00:30:58sakanaimmune

イチロー 鈴木 一朗

[編集] エピソード

[編集] 人物、プライベート

  • 一朗なのに次男 :命名の由来は「一生朗らかに暮らせるよう」願ってのものであると聞く。
  • 家庭 :妻は元・TBSアナウンサー福島弓子。飼っている柴犬を非常に可愛がっている。その名を「一弓(いっきゅう)」と言い、命名は、自身と妻の名「一朗」「弓子」から一文字ずつを採って「(いつ)」+「(きゅう)」としたもの。
  • 偏食家、カレーが好き偏食家であり、独身時代は牛タンを主食とし、神戸市三ノ宮の牛タン専門店「牛や たん平」の常連となっていた。また、メジャーリーグに行ってからの7年間、シアトルにいる際の昼食はほとんど弓子夫人手作りのカレーである[7]
  • 車が好き :車好きであり、日本ではCMに出演していた日産自動車インフィニティQ45シーマ、1000万円以上かけてチューンしたマーチなどに乗っていた[32]。アメリカでは同じく日産のインフィニティ・G35クーペポルシェ・カレラGT、オールスターMVPの副賞として贈呈されたシボレー・タホハイブリッドなどを所有している。
  • ファンおよびマスコミへの対応(その1) :普段はメディアの取材に積極的に応えることはないが、糸井重里との対談で、「僕はゲームの後にその日の試合のことについて語ることを、あまりしていません。それは真剣に見てくれている人々のことを考えると、いい加減なことを言えないからです。適当にあしらうことはできないんです」と語っている。また、「オフになってからは『イチローは何を考えているのだろう』という質問に答えることにしています」との言葉どおり、オフの特別番組やロングインタビュー等には積極的に応じている。同対談では「一時的な注目ではなく、何年も僕に興味を持ってくれる人達とは、もう一生の付き合いだと思っているんです」とも語っている。
  • ファンおよびマスコミへの対応(その2) :メディアへの接し方については、「メディアと選手というのは戦っています。お互いが緊張しなくてはいけないし、お互いが育て合う関係だと思います。ですから妥協はしたくないのです」とインタビューで発言している。そのため、メディアと選手とが馴れ合っているような関係を快く思っていない[33]
  • ファンおよびマスコミへの対応(その3) :若手時代は今と違ってむしろマスコミに対して好意的で、バラエティ番組にもよく出演し、明るく喋っていた。急変したのは評論家・永谷脩が事実無根の文章を書いて発表して以降である[要出典]
  • インタビューでの発言(その1) :打席に入る前にバットを正面に立てる動作について、2003年のインタビューで「集中するための儀式。ゴルファーが行う一連の動作と同じ。自分の形を作って、まず自分を落ち着かせる。自分のペースに持っていくということです」と答えたことがある。また、インタビュアーの「バットを立てたとき何を見ているのか」という質問に対しては、「最初にバットを見て、それからピッチャーの後ろのほうをぼんやり見ている。それからピッチャーを見る。今の形になったのは、1998、1999年ごろ。いろいろ試してみて、これがしっくりきたんです」と答えている。 同インタビューでの「もし、野球というスポーツがなかったら、どんな人生を歩んでいたか」という問いに対し、「組織の中で自分を殺して生きていく事はできないタイプなので、自分で何かをやっていたと思う。何かは分かりませんが。サラリーマンは勤まらないでしょう」と語っている。
  • インタビューでの発言(その2) :テレビ番組『ICHIRO-VERSUS』(2008年3月19日放送)の“憧れ”という問いに「ドラゴンズのユニフォームを着た全ての選手」と答えていることから、中日ドラゴンズに対しての幼いころからの憧憬を、今もなお持ち続けていると思われる(子供のころの好きな野球選手に田尾安志を挙げている)。しかし、2007年に『週刊プレイボーイ』誌のインタビューで、「もし日本の球界に復帰するなら読売ジャイアンツ以外はあり得ない」という発言もしている。これは「常時優勝争いのできる球団に在籍したい」という気持ちからである。また、インタビューでは強い巨人の再興こそが日本野球の復活と考えているとも語った。
  • 安打へのこだわり :「打率は変動するが、安打は積み重ねることができる」との理由から、打率よりも安打を重視している[34]。書籍『イチローイズム』では、著者の「シーズンを終えて『199安打で4割』と『ジョージ・シスラーのメジャー記録を上回る258安打で、3割9分9厘』、イチローはどちらを望むのか」という質問に対し、「僕が210本のヒットを打った94年に、よく訊かれたことがあるんです。それは、『199本で4割ピッタリだったとして、次の打席はどうするか』ということだったのですが、いつも決まってこう答えていました。『決まり切ったこと、訊かないでください』と。もちろんそれは今も変わりません」と答えている。また、インタビューでの『打率4割とメジャー最長記録である56試合連続安打、どちらのほうが達成は難しいか』という問いに対しては、56試合連続安打のほうを選んでいる[35]
  • 道具への気遣い :バットやグローブを「道具ではない。自分の一部。自分の体の一部」だと語るほど、使う野球用品を非常に大切に扱っている[19]。そのため、打った直後も必ずバットを静かに置く。ただ、オリックス時代に1度だけバットを放り投げたことがあり、そのときのことについて、「後ですごく後悔して、それから特に道具に対する気持ちが強くなってますね」とインタビューで答えている[36]。また、他の選手の野球用具は絶対に触らない。チームメイトの城島健司いわく、「質感や重さが、手に残ることが嫌」ということである。
  • 愛用のバット :愛用のバットはミズノ篠塚和典モデルがベースであるという。バット製作にあたってミズノの工場内にある歴代選手シグネーチャーモデル展示室に並ぶバットの中で、本人いわく「遠くから見ても、それだけがもうチカチカ輝いていた」と言い、手に取ると何から何まで自分にピッタリであったとのことである。ただし、ヘッド重量は若干軽量化させているとのこと。また、自分の調子に合わせてバットを変えるということはせず、バットを変えることなく自分を調整していくため、オリックス入団時から一貫して同じ形のバットを使い続けている。イチローを含め様々なプロ野球選手たちのバットを作ってきた、あるバット職人は、「私の記憶の中では、これほど(バットを)変えない方はいらっしゃらないですね」とイチローについて語っている[37]
  • 俊足を支えるもの :イチローの俊足を支えるスパイクシューズは山陰アシックス工業が製作している。年々改良が続けられている専用シューズは軽量化に重点が置かれており、2008年モデルは片足約260gという超軽量化を実現しているが、反面スパイク部分に使用されている特殊素材は軽量化の代わりに耐久性を犠牲にしており、3試合程度の使用で新品と交換している。このため、同社がイチローのために製造しているシューズは試合用と練習用を合わせて年間150足を超える。
  • 栄誉について国民栄誉賞を2度打診された初の人物であり、同じく2度断った初の人物でもある。

[編集] オリックス時代

  • ジュニアで寄付 :1992年のジュニアオールスターでは同点の8回に代打決勝ホームランを放ち、MVPを獲得。賞金100万円を手にするが、全額を神戸市の養護施設に寄付した。2軍選手でこのことをしたのはイチローが初めてである。
  • ルーキーの打率 :ルーキー時代の1992年に.366の高打率でウエスタン・リーグの首位打者を獲得している。そのため、1993年を除いて日本球界に所属していた全ての年に首位打者を獲得していることになる。1993年はウエスタン・リーグで打率.371を残したが、1軍半であったため、規定打席に少し足りず、規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の打率は.346)。
  • 新幹線ホーマー1993年のオフにハワイ・ウィンターリーグでヒロ・スターズというチームで優勝し、リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドで推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打った。地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれている[38]
  • 会いたい前田さん :プロ入り以来「一番会いたいのは“前田さん”」と話していた。広島東洋カープ前田智徳のことである。1994年にオールスターゲームに出場した際、前田との初対面を果たし握手を交わしたイチローは、満面の笑みを浮かべていた。
  • 投手イチロー1996年オールスター戦の9回2アウト、打者松井秀喜(当時巨人)のところで、パ・リーグの仰木彬監督は、スピードガンコンテストで146kmをマークしたことのあるイチローを投手に起用。イチロー対松井の夢の対決を期待したファンが大歓声を送った。、代打高津臣吾(当時ヤクルトスワローズ)を送り、結果はショートゴロであった。これは、オールスターをファンにとっての最大のエンターテイメントと考える仰木監督と、選手にとっての栄誉ある舞台と見る野村監督との考え方の食い違いによるもので、野村監督は野手を投手として送り込むのは、対戦する打者にとって最大の侮辱と捉えていた。後日これに関して野村監督は「ふざけている」とコメントした。
    • 投手イチローのいるゲームソフト :このエピソードを反映してか、翌1997年にナムコ(現・バンダイナムコゲームス)から発売された『ファミスタ64』において、オールスターモードでイチローを投手として登板させるという裏技が搭載された(同時期に投手・打者の二刀流として話題になった嘉勢敏弘も同様の裏技が搭載された)。
    • 白けた :上記の事例に関してイチロー本人は長年沈黙を守っていたが、比較的近年になって「松井とマウンド上で対戦できるしびれる場面に水を差されて、一気に白けた」と当時の胸の内を明かしている。
  • イチローシート :1996年から2004年まで、神戸総合運動公園野球場にイチロー・シートを毎年20席(約140万円分)設置し、神戸の野球少年を招待していたが、同年の球界再編騒動でオリックスブルーウェーブが大阪近鉄バファローズを吸収合併。オリックス側も05年以降のイチローシートの購入を求めていたが、自分の育った球団はブルーウェーブでありバファローズではないという理由で購入を拒否した。
  • 慈善活動 :1998年には出身地の愛知県に社会福祉のために1000万円、兵庫県には震災復興のため1000万円を寄付。2000年には豪雨によって被害を受けた愛知県にトレーナー、パーカーを合計1000枚、Tシャツ500枚(計1300万円相当)を贈るなど慈善活動にも熱心である[39]
  • スペアリブ :1999年のシーズン前に星野伸之戎信行と一緒にシアトル・マリナーズの春季キャンプに参加した[40]。そのときに食べたスペアリブ中(あた)ってしまい、体調を崩して結果が思うように出せなかった。以来、口に入れるものは疑うようにしている[41]。なお、この時の腹痛は熱いほうじ茶を飲んで治したという。また、このシーズンに通算1000本安打を達成した際、当時マリナーズに所属していたケン・グリフィー・ジュニアは「メジャーでも通用する。唯一君の前に立ちはだかるものはほかならぬスペアリブだよ」とコメントを寄せている[42]
  • 三塁手イチロー :1999年の試合では、選手が足りなくなり、三塁を守ったことがある。しかし、守備機会はなかった。
  • 悪球打ち :2000年5月13日ロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにした。
  • バースに迫る打率(その1) :2000年シーズン、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持し、規定打席に到達して以後も.390台をキープ、最も高いときで.398を記録していた日もあった。しかし、その後徐々に下がっていき、打率.3873のときに故障して戦線離脱した。同年はそのままシーズンを終えたが、あと1打席に立って1本安打を放った後で故障していた場合、打率.3888でシーズンを終了していたことになり、1986年ランディ・バースが持つシーズン歴代最高打率(.3885)を超えていた。
    • バースに迫る打率(その2) :また、210安打を放った1994年は、主に1番打者として全試合打席に立ち続けながら、50試合目以降からシーズンを終えるまで常に打率.380以上を維持した。特に63試合目には打率を4割台に乗せ、69試合目まで7試合4割を継続している。70試合目以降は.380台後半から.390台後半のあいだをうろつき、規定打席に到達した後も.390台を推移し、126試合目を終えた時点でもバースの打率を超えていた。しかし、127試合目、128試合目で共に5打数無安打に倒れ、打率を.380台前半まで下げた。これが響き、最後の2試合でそれぞれマルチヒットを放ったものの、結局バースの打率には届かなかった。
  • オリックスの51番 :現在、オリックスでは背番号51は誰もつけていない。また、その後のイチローの功績から考えると、現役選手を引退した場合、51番が永久欠番になるのは確実と見られている。

[編集] マリナーズ時代

  • 道徳教材 :2004年、小学5年生の道徳副読本の題材に登場、連続試合出場の「継続」の大切さを伝えた。
  • 2006WBC決起集会 :2006年のWBCでは、疑惑の判定で敗れたアメリカ戦後に決起集会を開いてチームを鼓舞した[43]。その際、出席者全員分の食事代を一人で全額負担した[44]
  • ファッション誌のモデル :2006年4月28日に日本で発売された、フランスの最高級ファッション誌『ロフィシェル』日本版6月号に、モデルとして出演した。
  • マリナーズの顔 :2007年にESPNが行った「マリナーズの顔は誰?」というアンケートで投票総数3万4166票中、96%の票を集めて1位に選ばれた[45]
  • レストランの予約とMVP :2007年のオールスターゲームにおいてランニングホームランを決めた後、イタリアンレストランの予約を入れていたために球場から出て帰ろうとしたところ、スタッフから「MVPに選ばれるかも知れないから帰るな」と引き留められて球場にとどまり、MVPを受賞した[46]
  • 無断広告 :2007年11月27日、写真入りの広告を無断で使用されたとして、台湾の広告代理店に損害賠償を求めていた訴訟控訴審判決が、台湾高等法院で下された。同院は「台湾ではニューヨーク・ヤンキースの王建民投手(台湾出身)の知名度に及ばない」などとして、500万台湾ドル(約1700万円)の支払いを命じた1審判決を大幅に減額し、100万台湾ドル(約340万円)の支払いを言い渡した[47]
  • マリナーズのベストナイン :2008年1月、マリナーズの公式サイトが発表したチームの歴代ベストナインで、「右翼手」で選出された[48]
  • 内野守備 :2008年8月17日、同点の9回裏1死2,3塁という場面でメジャー移籍後初めて内野(二遊間)の守備位置についたが(5人内野シフト)、四球で満塁になったところで外野に戻り、守備機会はなかった。
  • ユンケル専用佐藤製薬ユンケル黄帝液を長く愛飲しており、特注で作った専用ケースに詰めて遠征時には必ず持っていくという[7]
  • 長者番付 :米国のスポーツ専門誌『スポーツ・イラストレーテッド』が発表した「スポーツ選手長者番付」によると、2006年度の年収は2250万ドル、2007年度の年収は2400万ドルである[49]。2008年度は2760万ドルだった[50]
  • 体脂肪率 :徹底した自己管理で、34歳になった現在でも20歳代のころと変わらぬ体脂肪率6〜7%を維持している[51]
  • 通訳の件 :インタビューなどで全く英語を話さず通訳を通しているため、日本のみならずアメリカのファンから「英語を習得できていないのか」とよく批判されている。しかし、英語でファンやチームメイトとコミュニケーションをとる姿が多く映されており、アメリカ代表として来日した2002年の日米野球戦の記者会見でも、ニューヨーク・ヤンキースジェイソン・ジアンビに「アメリカ代表なんだから英語で答えろよ」とからかわれ、「shut up!(うるさいよ!)」と笑って即答している。通訳を通すのは、ファンや記者によりわかりやすく正確な英語で伝えるためであるとのことである。

[編集] その他

  • 幽霊の正体 :イチローが高校生であったころ、母校・愛工大名電に近在の神社では夜ごと幽霊が出るとの噂が立っていたらしいが、その正体は、素振りをするイチローであったという話が残されている。
  • ルーキー時代の計画 :1992年当時、オリックスの2軍打撃コーチであった河村健一郎は、イチローら新人選手たちにレポートを提出させた。するとイチローは「12年間で2000本安打を達成する」と書いていたという。そのレポートから12年後の2004年、イチローは日米通算2000本安打を達成している。
  • 投手に憧れ :高校時代に怪我が原因で投手から野手に転向した。この事からか投手というポジションへの強い憧れを公言しており、『週刊ベースボール』誌で組まれた松井秀喜との対談の席で松井から「今でもピッチャーに未練はあるんですか」と尋ねられた際には「それはもう、むちゃくちゃある」と答えている。
  • 松井秀喜との接点 :上記の対談で明らかになった事であるが、高校時代から松井秀喜とは接点があり、両者ともに1軍メンバーとして対戦している(イチローが一学年上にあたる)。これは、愛工大名電高校と星稜高校両校の野球部には長年交流があり、年に数回合宿も兼ねた練習試合を行っていたためであった。なおこのとき、イチローは当時1年生にして4番を任されていた松井に「すごく飛ばすらしいじゃない。もう(ホームランを)何本打ってるの?」と尋ねたところ、松井に「10本くらいですかね」とさらりと返答され、「すごい奴もいるもんだな」と内心驚いたという。一方、松井は上記のエピソードを憶えていなかったようであるが、星稜高校の部長(一般のクラブでいう顧問の先生)が「あいつ(イチロー)すごいな。絶対プロになるよ」と驚嘆していた事は鮮明に憶えていると語っている。
  • 清原和博との交友 :清原が晩年に仰木彬に師事したという共通点から知り合う。イチローいわく「一時期好ましくない印象もあったけど、会って食事をしたらとても好感の持てる人だった」とのこと。合同練習で和やかに練習したり、清原が軟骨移植手術のリハビリ中に清原の名前が入った背番号3のマリナーズのユニフォームを送るなど、親交は深い。全日程が終わった直後にも関らず引退試合にも駆けつけ、清原もセレモニーで謝意を述べた。
  • マナカナとの交友 :マナカナ(三倉茉奈三倉佳奈)とは、マナカナが11歳当時のハウス食品のCMで共演して以来の付き合いであり、毎年数回食事を共にしたり国際電話をする仲である。マナカナは「ハワイでの撮影で仲良くしてもらい『日本へ帰ったらご飯食べに行こうよ』と言われていたが、社交辞令ではなく本当に連絡があって驚き喜んだ」との旨を語っている。
  • 林檎のイチローシンガーソングライター椎名林檎は、自らが作詞した『スーパースター』という楽曲について、イチローをイメージして制作したと発言している[52]
  • 少年そのもの :元チームメイトのエドガー・マルティネスは、イチローのことを「少年そのもの」と評している。

[編集] 記録など

  • 1992年7月12日の福岡ダイエーホークス戦で木村恵二投手からプロ初安打を記録(右前安打)[53]
  • 1992年、1993年でプレーしたウエスタン・リーグでは、2シーズンにまたがり46試合連続安打を記録した(1シーズンでは30試合)[53]
  • 1994年6月12日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、10回裏二死満塁の場面からサヨナラ振り逃げを達成した。これは日本プロ野球史上唯一の記録である(2008年シーズン終了時点)。
  • 日本時代のオールスターでは、初出場の1994年第1戦から2000年第3戦まで連続フルイニング出場しており、1996年の第2戦以外、すべての試合で安打を記録している。また、1995年は前半戦を十冠王(安打、本塁打、打点、盗塁、塁打、得点、死球、得点圏打率、出塁率、長打率)で折り返した。このことを同年のオールスター第1戦で実況が話題に出し、これを聞いた解説の江川卓は笑っていた。
  • 日本での通算打率は.353を誇っているが、4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには381打数足りない。しかし将来日本に復帰した場合、381打数で3安打すれば通算打率は.3203(4000打数1281安打)となり、通算打率1位のレロン・リー(.3200)を上回る計算になる。
  • 得点圏に強く、日本時代の通算得点圏打率が.365、通算満塁打率は.363を誇っている[53]。日本では通算118本の本塁打を記録しているが、このうち満塁本塁打は8本あり、14.7本に1本の割合は通算満塁本塁打が7本以上の選手の中では歴代1位。駒田徳広と並ぶ6年連続満塁本塁打のプロ野球記録も持っている。メジャーでは通算得点圏打率.351、通算2死得点圏打率.366、通算満塁打率.473、通算満塁長打率.703と、それぞれ現役1位の記録を残している。また、左打者ながら左投手を得意にしており、日本時代の対左投手通算打率が.371[53]、メジャーでの対左投手通算打率は.354を記録している(いずれも2007年シーズン終了時点)。
  • 早打ちの傾向が顕著であり、カウント別最多安打は日米ともに初球で、0-1のカウントでの安打が2番目に多い[53]
  • スロースターターであり、メジャーでの4月通算打率は.294で、4月から9月までの月間別通算打率の中では自己最低を記録している。メジャーのシーズン歴代最多安打記録を樹立した2004年も、4月の打率は.255であった。しかし、翌月の5月になると途端に打撃の調子が上がる傾向にあり、メジャーでの5月通算打率は.364で、4月から9月までの月間別通算打率の中では自己最高を記録している(2008年シーズン終了時点)。
  • 20試合以上連続安打を、メジャーで通算5回記録している(現役1位。メジャー記録はタイ・カッブとピート・ローズの7回、19世紀の記録はウィリー・キーラーの8回)[54]。また、日本時代にも4回マークしている(日本記録)ため、日米通算では9回記録している。
  • 日本時代とメジャーでそれぞれ5回記録している最多安打は、すべて両リーグ最多安打である。また、メジャー移籍後は、安打数でリーグ3位以下になったことが1度もない(最多安打を逃した年の安打数はいずれもリーグ2位)。
  • 内野安打が多く、日本時代は全安打の16.3%(208本)[53]、メジャーでは全安打の約22%を占めている(2008年シーズン終了時点)。
  • メジャー移籍後は長期欠場が1度もなく、21世紀以降では、メジャーの現役選手中もっとも多く試合に出場している選手である(2008年シーズン終了時点)[55]
  • 日米通算のため参考記録ながら、2004年5月21日(現地時間)に30歳6か月で2000本安打を達成している。これは榎本喜八の31歳7か月を抜いて日本人最年少記録であり、1465試合での到達は川上哲治の1646試合を抜いて日本人最速記録である。また、2008年7月29日(現地時間)に日米通算3000本安打を達成したが、2175試合、34歳9か月での達成はいずれも張本勲の2618試合、39歳11か月を大幅に上回る早さである。

[編集] ドラマ出演

主人公・古畑と対決する犯人役「シアトル・マリナーズのイチロー」として出演した。それまでの古畑作品で、犯人役を本人が演じたのはSMAPのみであった。イチロー本人も『古畑任三郎』シリーズの大ファンと公言しており、プロデューサーと思惑が一致したため、出演に至ったとされている。出演ギャラは『古畑任三郎』DVD-BOXであった。
シリーズの脚本家である三谷幸喜はエッセイや2008年の再放送時のコメント映像中で、出演が決定し、イチロー本人と対面した際に、殺人犯役でそのまま「イチロー」の名前を使うのはためらわれるので「ハチロー」のような役名や別の職業にしてはどうかと提案したが、イチロー本人が「自分を演じたい」と熱望したため、そのまま「シアトル・マリナーズのイチロー」にした、と語っている。ただし、あくまでフィクションである事を示すため、レギュラーキャラクターの一人の「義弟」であるとの設定にされている。キャラクターについても「嘘はつかない」「フェアプレーを好む」「残虐な殺し方はしない」などイチロー本人の要望やイメージが反映されており、私利私欲でなく恐喝に苦しむ義兄を救うために殺人を犯す一方で、アリバイ工作や偽証を拒んで古畑に不敵に頭脳戦を挑むという役どころとなっている。撮影に当たっては台詞を完璧に憶えてNGはほとんど無かったと言われており、主演の田村正和は「役者の鑑」と評した。視聴率は27%で、12年続いたシリーズの中では7番目に高いものとなった。
イチローがチームのオフィシャル雑誌『Mariners』に語ったところによると、2004年に最多安打の記録を達成したオフシーズンに初めて野球以外で何かしてもいい気になったという。2005年の春季キャンプを迎える直前の2月に神戸のホテルで初めて脚本に目を通し、本人の話では冗談混じりにみすぼらしい演技で関係者に引き取ってもらい、面白い話が来た程度で終わらせようと考えたそうであるが、いざゴーサインが出た時は番組のレベルを考えてかなり緊張したと語っている。シーズン終了後の10月に東京ドームの駐車場で撮影が開始。今までやったことのない世界で、その世界の一流の出演者と共演し、本当に自分が番組のレベルにあった演技ができるのかどうか考えてとにかく怖かったと語っている。また、後日インタビューで、守備に就いている時に台詞の練習をしていたことや(グラブで口を隠して練習していた)、2005年シーズンの成績が他の年に比べて下がったことを引き合いに出して、「台詞の練習をしていたせい」だと冗談混じりに語っている。
イチローは以前にも映画『走れ!イチロー』(2001年・監督大森一樹)で本人役として出演を果たしているが、台詞は無かったため、台詞をしゃべるのは本作が初めてであった。