2004-04-22 18:44:45微涼的你

姜桂題(二)

‧一三○、段祺瑞改任參戰督辦

12月31日主戰派曹錕、張怀芝、張作霖、倪嗣沖、閻錫山、陳樹藩、楊善德、趙倜、孟恩遠、鮑貴卿、李厚基、姜桂題,田中玉、蔡成勳、盧永祥、張敬堯等16人發表世電,堅決反對恢复舊國會。認為:“舊國會兩次召集,兩經解散,成績無聞,名譽失墜,万無恢复之理。請我大總統敦促參議院迅將政府提出之選舉、組織兩法克日議決施行,以為召集新國會之張本。”這個電報是對馮示威的,因為馮打算在南北統一實現,舊國會与臨時參議院同時取消之后,根据舊的國會組織法与兩院議員選舉法,進行新國會的選舉,再由這個新國會進行總統的選舉,而新國會的選舉,皖系是無法加以控制的。

摘錄http://www.millionbook.net/lsxs/d/dingzhongjiang/byjf/132.htm

‧神原文庫分類目録(続) 和漢の部 十進分類目録
歴史(二〇〇) アジア史.東洋史

92.[張光前(仲明)奉呈頌詞]
姜桂題他 清代[光緒年間]写 27通
222.06

摘錄http://www.lib.kagawa-u.ac.jp/www1/kanbara/mokuroku/ippan2.html

‧東雞冠山日俄戰爭遺址

二龍山堡壘是清政府建于甲午戰爭前所建,先后經歷了中日甲午戰爭和日俄戰爭的戰火。1894年在中日甲午戰爭旅順保衛戰中,清軍統領姜桂題率4營兵力防守,在此指揮清軍英勇抵抗日軍的侵略而青史留名。1904年日俄戰爭中,俄軍將堡壘擴大面積為3萬平方米,備50門炮,由沙俄一個加強營駐守,日、俄在此進行了長達兩個月的激烈戰斗,并終以日軍攻克該堡壘而告終。

摘錄http://big5.ctrip.com/destinations/sight.asp?resource=6597

‧老北洋系
袁世凱の新建陸軍・武衛右軍・北洋常備軍・北洋六鎮などで活躍した、北洋軍閥の比較的初期の人物

米振標 1860~ 陜西 淮軍毅軍の軍官。姜桂題の部下。熱河臨西鎮守使・熱河軍務幇弁を歴任。姜桂題死後、熱河都督を継ぐ。皖系・直系・国民軍と順に近づく。

姜桂題 1843~1922 安徽 新建陸軍

摘錄http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7906/4-2-2-1-1.html

‧北京政府地方民政・軍政長官表
北京政府期の地方民政・軍政長官はあらゆる意味で重要であり、
この時期の全体的な流れをつかむ上でも理解しとかなければならない問題である

熱河都統
元年1912 4.6 熊希齢
二年1913 8.1 姜桂題
十年1921 9.10 汲金純

摘錄http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7906/4-3-3.htm

‧中華民國史事日誌
1912中華民國元年壬子

1﹐1(一一,一三)
(2)清將領姜桂題、馮國璋、張勳、張懷芝、曹錕、王占元、陳光遠、李純、王懷慶、張作霖等十五人電內閣,誓死反對共和,請飭各親貴大臣將在外國銀行所存款項提回,接濟軍用(一作1﹐2)。

1﹐3(一一,一五)
(4)袁世凱代遞姜桂題、馮國璋、張勳等1﹐1電,詔命親貴王公輸餉贍軍。

1 ﹐26(一二,八)
(1)清第一軍軍統段祺瑞、提督姜桂題、張勳、副都統段芝貴、布政使倪嗣沖、陸軍統制官曹錕、王占元、李純、陳光遠、孟恩遠、第一軍總參贊官靳雲鵬、參議官吳光新、曾毓雋、總參謀官徐樹錚、陸軍統領官鮑貴卿、盧永祥、李厚基、何豐林、巡防統領王汝賢、趙倜等四十七人電請明降諭旨,立定共和政體,以現內閣暫時代表政府。

2﹐2(一二,一五)
(1)姜桂題、段祺瑞、馮國璋電各路統兵官,盼北方軍界聯合團體,以厚武力(黃興等旋以南北軍人聯合會名義電姜等,否認南北之分)。

3﹐1(一,一三)
(2)袁世凱派陸建章、曹錕、姜桂題開導墀壓北京駐軍。

3﹐3(一,一五)
(3)段祺瑞、馮國璋、姜桂題通電,主政府設北京,總統不能離京受任。

4﹐6(二,一九)
(4)任命姜桂題為熱河都統(由崑源署),馬金敘為直隸提督,馬安良為甘肅提督。

8﹐24(七,一二)
(3)駐直隸通州之姜桂題部毅軍譁變。

1914中華民國三年甲寅

6﹐30(閏五,八)
(1)裁撤各省都督,於北京建將軍府,並設將軍諸名號,分駐各省,督理軍務;姜桂題為昭武上將軍,兼熱河都統,督理熱河軍務。

摘錄http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/1912.htm

‧大正期における蒙古

かくて川島らは8月30日、郭家店に赴き、巴布札布軍を慰労行賞し、事の次第を告げて蒙古へ帰軍させることにした。中村都督は蒙支軍停戦協定の名目で、鉄嶺から佐藤支隊を現地に出動させることに決し、9月1日夜、奉天矢田総領事代理に電して、張督軍へ伝達せしめた。郭家店を出発、約1ヶ月あまり、至るところに支那軍を撃破し、長躯行軍を続けてきた蒙軍は、愈々林西県城の攻撃にとりかかった。当時、林西県には、熱河都督経姜桂題旗下の林西鎮守使米振標の軍が駐屯していて、蒙古軍が来るとの報を受けるや、約1200の兵にて迎撃せしめんとしたが、蒙軍の左右両翼との三面からの騎兵の襲撃にて、遺棄死体約800、捕虜300余り、武器その他の分捕り品、多数であった。味方は戦闘の始めに、司令部の梅本某が肩部銃創を負うた外、死傷は合わせて60を越えなかった。薄隊隊長の薄守次は勇戦奮闘して、敵の将旗を分捕った。大石治郎は砲兵陣地に使して、敵弾飛雨の間を高地の稜線を往復して、大いに膽気を示し、砲隊長西岡少尉は砲隊を指揮して、思う存分敵を悩まし、当時守備兵の一兵として苦杯をなめた少年兵たりし李守信(後蒙古軍総司令官)、胡宝山(後蒙古軍師団長)などの、後々までの語り草となった由。

摘錄http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/mouko.taisho.htm