2004-01-12 15:53:42路過蜻蜓

人間関係が薄いか、深いか

家課一則。寫得很差,也大概有很多文法錯誤。不過,這裏面說的是我的真感覺。

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 私が育てきた町マカオはとても小さい町であり、一戸建て家はあまりない。幼稚園から、おじいさんとおばあさんとは一緒に住んでいなくて、父親と母親と共にマンションに住んでいる。家には、テレビがあるが、テレビゲームとかはない。私の家族が貧乏か、貧乏ではないかはあまり考えなかったけれども、親にテレビゲームを買ってお願いことは一回もしなかった。絶対に買ってくれないと思ったからである。自分小さいころ何を遊んでいたのはあまり覚えていないが、結構隣の友達と一緒に行動した。それにもかかわらず、ほかの隣近所の大人は、同じマンションに住んでいて何年間たって、知らないまま残っている。通り過ぎると、親は挨拶を交わしているが、自分は恥ずかしくて、一人のとき、何もやらないことが多かった。そう言えば、私も社会力の衰弱の人間の一人である。
 時には、父親はそういう話があった。昔、父が中国の田舎に住んでいるとき、夜扉を開けたまま寝ることもあった。そのとき、生活は貧しいが、誰にもお金がないし、治安がよかった。村の中すべての人も知っていて、よくお互いに助け合っていたそうだ。
 社会が豊かにあればあるほど、人間関係が薄くなるのではないかと私は思う。
 中国では、「老吾老以及人之老、幼吾幼以及人之幼」という諺がある。意味は、自分の家族の年寄り方だけではなく、他の家族の年寄り方にも尊んだり、自分の家族の子供だけではなく、他の家族の子供の世話をしたりすべきである。つまり、人に対しては愛を持っていてほしいということである。
 こういう経験があった。新宿に行って、電車の中はすごく込んでいて、自分の体調が悪くて、電車を降りたところ、転んで立ち上がれないほどつらかった。「大丈夫?」と聞かせた方がおり、自分は強がりやから、「大丈夫、ちょっと座って休んだら大丈夫よ」と私は答えました。その後、駅員も呼んで連れて来た。
 それは当たり前のことだと思う方もいるかも知れないが、私はこういう経験もあった。小学生三四年生のころのことだった。ある五十代のおじさんが道にある大きいな穴に落ちてしまって、私と友達が「大丈夫?」と声をかけた。「大丈夫ではない」という予想外な返事がくれ、何か助けてあげようと思ったが、自分が小さくて何もできなかった。通行人の大人に頼んでみたところ、急いで逃げた人もいるし、一人は「君のおじさん?」と聞って、「いいえ」と答えたと去っていた。最後は、何もできずに、自分も放って置けた。
 マカオの人は皆冷たいと言うわけではなく、忙しい人もいるし、自分の運がよくないために熱心な人には会わなかったこともあると思うが、日本に来て、知らない人に面倒をかけて助けることには感心した。
 それは教育の差と考えられる。日本の中小学校の教育はどうかはよく分からないが、私が受けた教育の中では、列に脇から割り込んではいけない、お年寄り方に優しくしたり、困っている人にはすくい手を差し伸べたりすることが入っているものの、効果はあまりにも失望させる一方である。もちろん、日本では、公衆場所で他人のことに全然気にしないでタバコを吸う人、脇から割り込む人もいるが、全体的に日本人のマナーはいいと言われている。だから、日本では、果たして、どのようにそんなことを教えているのかは好奇心を持っている。
 だからと言って、日本人の人間関係が深いとは言えるか。
 日本が発展した国である上で、国民はより豊かな生活を送っていて、一戸建て家に住んでいる家族が多くて、生活が便利だし、困ることがあれば、自分で、お金で、電気製品で簡単に解決できる。学校のクラスメート、会社の同僚以外の人との取り込みは少なくなるばかりである。例えば、昔、あるいは、田舎には、料理をするとき、塩がなくなったことに気づいて、隣のだれかれに訪れて、塩を貸してもらうことがありうる;今なら、コンビニは家からすぐ近くある。
 今、私は寮で一人暮らしを送っており、隣の人は知っているが、隣の隣の人は知らない。そして、一緒に食事をしようこともない。
 だからと言って、日本人の人間関係が薄いとは言えるか。

 私は分からない。