2008-03-22 23:18:00雪子

《精神醫學的人間像》閱讀筆記

這本書比前一本書難懂一點
是因為我對現象學和精神分析的歷史不是很清楚的關係
純粹是我唸的不夠多的關係

但他的文字簡單易懂
他不會用艱澀的專門用語
這給我繼續讀下去的動力

以下是我的閱讀筆記
希望有一天我有能力可跟大家分享

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つまり、人間が自己をまたしてもなにか「・・・・・・にすぎないもの」と誤って理解し解釈する危険です。なんといっても、現在までの最大人間合成術―生物学主義、心理学主義、社会学主義―は、人間に、歪んだ鏡の中で、自分自身の歪んだ像をまざまざと見せるものであり、その結果、人間は、それぞれ反射ロボットとか、衝動装置とか、心的機制とか、あるいはただの生産関係の産物に「すぎない」ものとされたのです。これらは、人間から、すなわち、詩篇の作者もpaulo minor Angelis(天使より少し劣ったもの)と名づけ、したがって、まさに純粋に精神的な存在として描いた人間から遠くかけ離れています。本来の人間的なものは、いずれにしても、人間からだましとられてしまっています。そして、われわれが忘れてならないのは、人間合成術が歴史をつくることができるということ―それはすでに歴史を作ったということです。・・・みなさん、アウシュビッツも、トレブリンカも、そしてマイダネックも根本的にはベルリンの閣僚たちによって準備されたものではなく、まえもってニヒリスティックな科学者や哲学者たちの机の上や講堂の中で準備されていたのです。(p44-45)

たしかに、患者の価値視野をひろげてやって、それによって患者が意味と価値の可能性の充実に、いわば価値の全スペクトルに気づくようにさせてやることは、ロゴテラピーの課題のひとつです。しかし患者は、その価値の実現を、ロゴテラピーによって回復された自己の十分な責任性意識によって捕らえるのです。そして、われわれは、ある真実が、それが価値判断、価値の認識や承認の真実でも、、患者の中にひとりでに擡頭してくるもので―いまさら医者の側からの強制を必要としないものであることを信頼しようとしないならば、それは、意味や価値といったものの客観性を非常に低く評価することになりましょう。もちろんロゴテラピーはそのような強制を行使しようとは思わないでしょう。ロゴテラピーはしかし次第に責任性への教育―ある体系的な本の表題を引用しますと―として正しく理解されています。ある心理療法が、医師の私的世界観と個人的価値観念を患者に「転移すること」に対して守られているなら、それはロゴテラピーです。(p52)

われわれは、苦悩が人間に提供する意味がなぜ至高のものであるか、という問いに答えてみましょう。さて、態度価値は創造的価値や体験価値に対して、苦悩の意味が労働の意味や愛情の意味より次元的に上位にある限りにおいて、すぐれていることがわかります。・・・われわれは、Homo sapiens(人間)が、創造しつつ自己の存在価値を充足するHomo faber(はたらく人間)と、体験し、出会い、そして愛しつつ自己の人生を意味で充たすHomo amans(愛する人間)と、そしてHomo patiens(苦悩する人間)とに分けられる、というところから出発しましょう。さて、はたらく人間はまさに、成功人とでも名づけるのが当たっています。かれはたったふたつの範疇しか知らず、そしてそのなかでしか考えません。つまり、成功と失敗です。これらふたつの極のあいだを、かれの人生は、ひとつの成功倫理に沿って、動いているのです。苦悩する人間はこれとは違って、かれの範疇はもはや成功と失敗ではなくて、むしろ充足と絶望とです。けれども、この一対の範疇によって、かれは、すべての成功倫理の線と垂直に位置します。なぜなら、充足と絶望は別蓮蒂の次元に属するものだからです。こうした次元的差異から、その次元的な優位性が生じてきます。なぜなら、苦悩する人間は最悪の失敗や挫折の場合でもなお自己を充足することができるからなのです。そこで、成功と絶望が両立しうるのとまったく同様に、充足と失敗も両立しうるということになりましょう。しかし、このことは、ふあつの範疇対の次元的ちがいからだけで理解すべきものです。もちろん、われわれが、苦悩する人間の勝利を、苦悩の中でかれの意味充足と医湖充足を、成功倫理の系列の中へ移しこもうとするなら、それは次元的なちがいにもとづいて正確に写しだされるにちがいないでしょう。・・・言いかえると、はたらく人間の眼からみれば、苦悩する人間の勝利などは、ばかげた癪のたねに違いありません。(pp59-60)

それにもかかわらず明らかなことは、創造的価値を実現する可能性、つまり正しい行動によって運命を引き受ける可能性は、正しい態度において宿命をになう必然性、つまり態度価値を実現する必然性に対して、当然、上位にあるということです。要するに、苦悩の秘めている意味可能性がたとえその価値の序列において創造の意味可能性よりすぐれているとはいえ、つまり、たとえ、苦悩の意味が優位権をもつとしても―優先権は創造の意味のものです。なぜなら、宿命的に必然な苦悩ではなく、不必要な苦悩をになったからといって、それはけっして行為ではなく、むしろ好き勝手だからです。不必要な苦悩は―マックス・ブロートの表現をかりると―「高貴」でなく「いやしい」不幸なのであります。(p62)

フランクル・セレクション 2
精神医学的人間像
DAS MENSCHENBILD DER SEELENHEILKUNDE
著者 ヴィクトール・E・フランクル
訳者 宮本忠雄
訳者 小田晋


「精神分析はわれわれに快楽への意志を呈示しておりまして、それをわれわれは快楽原則として把握することができますし、個人心理学は権力への追求という形での力への意志をわれわれに明らかにします。しかし人間には、もっとはるかに深いところに根ざした、私が意味への意志と呼んだものがあります。すなわちそれは、自分の現存在をできるかぎり意味に満ちたものにしようという苦闘です。」(本文より)

『死と愛』において論じたロゴテラピーや実存分析の方法を、聴衆を前に講演する。精神医学は人間の存在を、どのように捉えればよいのであろうか。フロイトやユングの精神分析との違いを明らかにしながら、独自の人間像を描く。


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「精神医学的人間像」の著訳者:ヴィクトール・E・フランクル
Viktor Emil Frankl
1905年、ウィーンに生れる。ウィーン大学卒業。在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を、戦後まもなく『夜と霧』に記す。1955年からウィーン大学教授。人間が存在することの意味への意志を重視し、心理療法に活かすという、実存分析やロゴテラピーと称される独自の理論を展開する。1997年9月歿。著書『夜と霧』『死と愛』『時代精神の病理学』『精神医学的人間像』『識られざる神』『神経症』(以上、邦訳、みすず書房)『それでも人生にイエスと言う』『宿命を超えて、自己を超えて』『フランクル回想録』『<生きる意味>を求めて』『制約されざる人間』『意味への意志』(以上、邦訳、春秋社)。
※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。
宮本忠雄
みやもと・ただお
宮本忠雄<みやもと・ただお>1930年埼玉県に生れる。1954年東京医科歯科大学医学部卒業。精神医学専攻。1973年から自治医科大学教授。1999年歿。著書『精神分裂病の世界』(紀伊國屋書店、1966)『人間的異常の考察』(筑摩書房、1970)『現代の異常と正常』『言語と妄想』(平凡社、1972、1974)『妄想研究とその周辺』(弘文堂、1982)。訳書 ビンスワンガー『現象学的人間学』(共訳、1967)メルロ=ポンティ『知覚の現象学』2(共訳、1974)テレンバッハ『味と雰囲気』(共訳、1980、以上みすず書房)ハンス・トリューブ『出会いによる精神療法』(共訳、金剛出版、1982)ラカン『パラノイア性精神病』(共訳、朝日出版社、1987)ほか。
※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。
小田晋
おだ・すすむ
1933年大阪に生れる。1963年東京医科歯科大学大学院修了。精神医学・犯罪学専攻。筑波大学教授を経て、2001年から帝塚山学院大学教授、国際医療福祉大学客員教授。社会経済生産性本部メンタルヘルス研究所長。著書『文化と精神医学』(金剛出版、1974)『社会病理診断』(中央公論社、1986)『日本の狂気誌』『東洋の狂気誌』(思索社、1988、1990)『狂気の構造』『現代人の精神病理』『精神変容のドラマ』『少年と犯罪』『宗教と犯罪』(以上青土社、1986、1990、1992、1997、2002、2002)編書『司法精神医学と精神鑑定』(医学書院、1997)訳書 シプコウエンスキー『医原症』(共訳、文光堂、1977)ほか。
※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。

http://www.msz.co.jp/book/detail/08002.html