2010-07-13 10:58:38雪子

羊水検査と責任の個人化

偶然このページを訪れて、この文章を読まれる方に:

この文章は、インターネットを通じて読んだ文章を元に作成したメモなので、厳密なものではないし、学術的価値はありません。ただ、数字や制度に関する記述の正確性はおいおい修正していくとして、この1か月間で考えたり感じたことをとりあえず書き留めておきたいと思ったのです。だから、ただの感想文として読まれるぶんにはかまいませんが、鵜呑みにしたりしないでくださいね。

もうひとつ、私は自分の備忘録としてこのメモを書いています。現時点ではきちんとした文章にはならないけれど、妊娠5ヶ月という状態(高齢妊婦の当事者)として感じたことを書き留めておきたいと思い、書いています。この問題は、妊婦の諸権利や胎児の生命にかかわるとても重大な問題なので、見ず知らずの方と、ネット上で匿名のまま議論するつもりはありません。内容に関する質問もご遠慮ください。この文章はまだまだ練られておらず、混乱したものですが、私なりにここ1か月間一生懸命考えてきました。ですから、同じようにこの問題について真剣に考えている人で、面と向かって話し合える人に限り議論したいと思っています。

一、なぜ羊水検査にこだわるか

羊水検査は高齢妊婦なら誰でも向き合わなければならず、かつ、流産の危険を伴うリスクの高い検査であるにもかかわらず、日本と私が住む台湾やそのほかの国(韓国、フランス、アメリカ、スウェーデンなど)では、羊水検査に対する考え方、検査に至る過程が大きく異なることを知ったことから、この1か月間ネットで読んださまざまな文章を自分なりに整理しておいた方がいいと思いました。

二、本能に反する検査

 私が初めて羊水検査のことをきいたとき、まず思ったのは、私の本能に反するということでした。妊娠してから好むと好まざるとにかかわらず、私の身体は胎児を守ることを最優先して動きます。もちろんその中には後天的に得た知識からとる行動もありますが(たとえばビタミン剤や葉酸の錠剤を毎日摂取するなど)、そうではなくて、もっと原初的な身体の反応もあります。たとえばつわりや、ひどい眠気、思考力の著しい低下もそういう反応のひとつだと思いますが、私はそのような身体反応を通じて、胎児が私のおなかの中で命をはぐくんでいることを感じるのです。そういう感覚を数か月体験している私に、胎児を危険に曝す恐れのある検査を当たり前のように勧める人たちに、私は強い違和感を覚えました。

 でも、台湾の医学生がまとめた冊子を読んでも、周囲の医者や公衆衛生の教授とおしゃべりしても、羊水検査を受けるのが当たり前という反応しか返ってこず、さらにはもっと精度の高い(値段も高い)検査まで紹介してくれる人も出てきて、この検査を胎児の生存権や命の選別を促してしまうというように問題視する人に出会うことができず、完全に孤立してしまいました。同年代の女性と話しても、「ダウン症の子どもだったら中絶する」という答えが返ってきました。一方、日本では、前の文章に書いたように、否定的な見解が多く、検査を受けることも、検査を受けたことを公表することも、検査結果が陰性だった場合「無事」と表現することも、厳しく批判されます。私がネットで散見した日本のそれぞれのケースについては、前文のリンクをご覧ください。

三、責任の個人化

私が日本の羊水検査に関する文章を読んでいて思ったのは、検査否定派も「個人の自由だ」とする派にも共通点があるということです。それは、肯定でも否定でもその矛先が妊婦個人に向かっているということです。否定派によって、「障害者を差別している」「命を軽んじている」とみなされるのは妊婦です。

 また、不妊治療中という助産士が自身のブログで、検査後人口死産を選択し、手術後涙を流している妊婦を見て、「自分で殺したくせに泣く資格はない」「偽善」といったようなことを書いているのをみました。人口死産の決断にいたるまでにはさまざまな葛藤があると思います。また、仮に事前にそれほど深く考えていなかったとしても、手術の過程でことの重大さに気づく人もいるかもしれません。自分としては妊娠を継続したいけれど、家族の反対にあったり、個人の意思と反していてもやむにやまれぬ事情で泣く泣く人口死産を選択する妊婦もいるでしょう。でも、日本語のネット上の議論を読んでいると、妊婦個人がきちんとした倫理観を持っていれば、検査を受けたり、人口死産を選択するようなことはない、そもそも検査を受けようとしたり、検査の結果によって人口死産を選択するような妊婦は、妊娠する資格などないという論調が根強いことが分かります。

 あとは、「賛成も否定もしない、検査を受けるか否か、検査結果をどのように受け止めるかは『個人の自由』であり、他人がとやかく言う問題ではない」という意見も目にします。これは一見中立的で、客観的な意見のようにみえます。しかし、検査にかかわる決断のすべての責任を妊婦個人に帰するという点では、否定派とさほどかわらないという印象を受けました。

もちろん、最終的には妊婦個人の考えが尊重されるべき、というのはそのとおりだと思います。でも、それは、障害のある子どもを出産したときに社会から非難されない―誰も俺たちの税金を無駄遣いしやがってなどと言わない(2ちゃんねるなどをみると本当にひどいコメントを目にします。彼らだって将来寝たきりやなんらかの障害をもって他人の世話になる可能性があるのに、そういうことは一切考慮されていないコメントが非常に多く、情けない気持ちになります。)―、必要な支援を受けることができる、また、生まない決断をしたときに妊婦個人にすべての責任を負わせないといった前提があってこそ、個人の信念に従って決断ができるのだと思います。羊水検査について考える妊婦を「倫理観が欠如している」と非難しておいて、彼女たちが実際に障害のある子どもを出産したときに手を差し伸べない、自分で生むことを決めたのだから、自分の責任で育てるべきとか、税金の無駄遣いと非難するようでは、妊婦に対してあまりにも過酷だし、不公平だと思います。

 性行為、妊娠や妊娠期間中に受ける検査、中絶、出産など生殖に関する話題は「個人的なこと」で「あまり人前で話して欲しくない」という意見をよく目にします。とくに羊水検査についてはそういう意見が目につきます。でも、「個人的なことは語るな」という風潮は、問題を問題化できなくするので、私は良くないことだと思います。一人一人の妊婦が検査をするか否か、検査結果をどのように受け止めるかは、各国の状況を比べてみると、個人の信念というよりも当該社会で羊水検査がどのように受け止められているかによって大きく異なります。つまり、生殖に関する一連の問題は個人的な問題であると同時に、社会で議論が重ねられ、共通見解が得られなければならない問題であると思うのです。

 私は、台湾のように「羊水検査を受けるのが当たり前」とされ、医療関係者もそれ以外の人も、それが人権にかかわる問題であり、医療関係者と妊婦の間で十分な議論がされないまま、妊娠の一つの過程として検査を受けさせられるような風潮に疑問を持っています。でも、日本のように、個人の倫理観や道徳性を振りかざし、妊婦個人を追い詰め、しかも産後のサポートもないような社会の方が、ある意味台湾やそのほか羊水検査を受けることが当然の社会よりも、ずっと子どもを生み育てることが難しいとも思うのです。産む、産まないどちらの選択をしても周囲の人たちが受け入れてくれると信じることができてはじめて、私たちは個人の信念に基づいて最良の選択をすることができると思います。私たちが、妊娠、出産について、本当に個人の選択の自由を尊重しようと思ったら、個人が自己の信念に従って決断しても、彼女とその子どもたちを十分サポートすることができるような社会をつくる努力をしなければならないと思います。

 たとえば、スウェーデンのように羊水検査が無料で、胎児に先天性異常が見つかった場合ほとんどが中絶、という社会があるとします。私がこの話をみた文章では細かいところはわかりませんが、仮にこの社会では「今生きている障害者には手厚い支援をする。しかし、胎児のうちに先天性異常が分かった場合には中絶する。(今すでに生まれでて世の中で生きている人に優先的に福祉予算を配分する)」ということが国民の十分な議論の結果、合意形成されているとしたら、それは、中絶した人個人が中絶にともなう罪悪感やスティグマを一人で一生背負って生きるのではなく、社会全体で妊婦が中絶という選択を促した責任を負っていく」ということだと思います。私個人は、おなかの中で懸命に生き延びようとしている胎児の生存を脅かす権利は、妊婦本人といえどももっていない、と考えていますが、上記のような社会の一員として生きていくことを選択した人たちが、その社会で形成された合意に基づいて何らかの選択することは、批判されるべきではないとも思います。

四、階級の問題

もうひとつ、検査を受ける、受けない、又は産む、産まないの選択を個人の倫理観の問題に帰してしまうと、階級の問題を見逃してしまうことになるでしょう。たとえば台湾では羊水検査は6000元個人負担をしなければなりません。ということは、台湾の物価は、ものにもよりますが大まかに言って日本の3分の1から2分の1です。そういう社会で暮らしている人にとって6000元は決して気軽に出せるものではありません。お金持ちはともかくとして、中低層の家庭では負担できない場合もあると思います。そうなってくると、裕福な家庭では先天性異常をもつ子どもの出生率が低く、中低層の家庭では高いといったことが起こりかねません。国による福祉が期待できない社会にあっては、障害を持った子どもを抱えた中低層の家庭はさらに困窮することになるでしょう。そして裕福な家庭では、「選別済み」の子どもだけが生まれてくるということになります。

私が精神科で訓練を受けたことのある友人に聞いたところ、台湾では、精神病患者患者を抱える家庭は経済的に困窮している場合が多いとの印象を受けたそうです。家に一人精神病患者が出ると、患者を介護する人が必要になるため、働き手が減ってしまいます。薬も高いし、場合によっては介護者までうつ病になったりして、ますます経済的に困窮してしまうのです。こういう負の連鎖が見られる場合、当事者に対して、「病気は個人の問題」とはいえないと思います。

日本のネット上で見られる「羊水検査を受けない理由」は、「検査をしてもすべての異常が分かるわけがない」「どんな子であってもわが子だから産みたい」というもので、検査拒否の理由として10万円前後の検査費を挙げる人はみかけませんでした。検査費について書いているのは(私の見た限り)みな検査を受けた女性たちでした。台湾では妊婦の出身階層にかかわらず、検査の存在については医師から案内があるそうですが、ネットで見る限り、日本では医師が検査について一言も言わない場合も結構あるようです。医師が「検査の存在について口をつぐむ」「説明を拒否する」というのは、果たしてどういう理由からなのかは、それぞれのケースを具体的に調べる必要があると思います。しかし、それにしても、日本では、医師の検査の存在を告げる、告げないについても、妊婦が検査を受ける、受けないという選択についても、個人の信念ばかりが過度に強調されているという印象を受けました。それは、妊婦にとってとても不利なことだと思います。


<スウェーデンの例>

ダウン症児が増えない理由

http://blog.goo.ne.jp/pedagogiskamagasinet/e/a5ef1ecca31cc04003d5b4fbacd20e7a/?ymd=200907&st=1

 

絶率が高いスウェーデン

http://blog.goo.ne.jp/pedagogiskamagasinet/e/ee6f8e9098bb60acc4a800f552dd076e