日本雑感(九)「網路與言論自由」:
朝日新聞1月3日付朝刊に、写真家藤原新也「ネットが世界を縛る」という記事が掲載されていました。私も新聞台に文章を書いていますが、普段は中国語で書いているし、私の新聞台の読者は主に台湾の方だと思って書いているので、日本のネット事情はいまひとつ実感がわきません。記事には、次のような言葉がありました。
「まず会話に「間」がない。相手の言葉を咀嚼する前にすぐ同調の言葉を発する。周りの雰囲気を壊さないよう、グループからはじき出されないように注意深く会話し、いい子を演じることが身についている。」
→もう何年も日本の若い人たちと話すチャンスがないので、実際のところは良く分からないのですが、そういう状況を想像しただけで怖くなります。雰囲気を壊さないこと、すぐに発言者に同調することばかりに労力を使っていたら、同年代のー知的には自分と同じくらい未熟なー小さなグループの中で生まれる発想がすべてになってしまい、その枠組みの外にある知にアクセスすることができなくなってしまいます。私は台湾に行ってから、日本社会が蓄積してきた「豊かな知」に触れ、驚くという経験をしています。私は、そういう経験をするたびに、自らのこれまでの怠惰が、私がその「豊かな知」に巡り会うことを阻んでいたのだと考えていました。でも、こういう記事を読むと、私たちと知的遺産の出会いを妨げているのは、やはり「個人の努力不足」、「個人の能力の問題」だけではないだろうと思うのです。それだけではなく、日常の人間関係が、私たちを知から遠ざけていると思うのです。私の場合、海外に行って、その障害物が取り除けられたことにより、それまで手に取らなかった本に出会い、自由に読み込むことが出来るようになったのでしょう。「どのような知にアクセスできるか/できないか」ということは、語学力の有無も関係するけれど、それがすべてではないのでしょう。その人がどんな階級に属していようとも、実際のところものすごくローカルな人間関係に規定されている可能性が高いと思うようになりました。その人が属するローカルな人間関係の中にいる人たちが権威ある人ならば、その知は「普遍的な、価値のある教養」となり、その権威が不要とみなした知は価値のない、知る必要のないものとなります。でも、その知の枠組みの外にでる努力をしなければ、豊かな(読書)生活とは一生無縁なものとなってしまうでしょう。
「大人世界がそういった相互監視の風圧に曝される一方、「学校裏サイト」に見られるように、ケータイやネット環境は監視装置として子供の個人情報や発言をも白日のもとに曝し、子供たちは空気を読んで行動せざるを得なくなった。今では誰でもブログを書く時代だが、それは個人情報を公のもとに曝すということでもある。…そのように相互監視システムがはりめぐらされて、同調圧力の風圧が強まる中、今後のコミュニケーションはどうなるか。」
→こういう話を聞くと、これじゃあ農村のおばあさんたちと変わらないと思います。話題は自分の身近な人の言動ばかり。都市の中産階級は農村の農民を馬鹿にしていますが、都市中産階級のおしゃべりを聞いていると、話題のレベルはまったく同じだと思うことしばしばです。何がおいしい、何がいくら、何が高級、誰が何した…という話ばかりで、農村のおばさんだって、都市の自称エリートだってちっとも変わりません。最近読んだ本の話が出来る人なんて、ほとんどお会いできません。
「皮肉にもネットの臨界現象が身体性を復活させている、という前向きな見方も出来る。」
→これは私の新聞台でも繰り返し強調していることです。ネットで情報を収集しただけで、テレビでニュースを見ただけでそれを鵜呑みにしてはいけないと思うのです。自分で現場に立ってみる、自分の五感をフルに働かせて、その場を感じてみることが大切だと思うのです。それは、声の小さい者、持たざる者が自分を守るために身につけなくてはいけない姿勢だと思うのです。
「ブログがタイムラグのある『文章』ならツイッターはライブで発している「声」や「呼吸」に近い。そういう意味で、これまでのネットメディアにないある種の身体性を感じる。...だが僕個人は、このツイッターに可能性を感じながら警戒もしている。それは逆に考えると究極の相互監視システムでもあるからだ。...ツイッターが新しいメディアにもかかわらずその使用者の中央年齢値が高く、子供や若年層が意外と参入していないのは、「学校裏サイト」などで彼らが死活問題とも言えるん産をなめているせいかも知れない。おじさんおばさん世代が嬉々としてツイッターにはまっている光景はネット相互監視のダメージの経験のない世代の平和な光景にも見える。」
→私はツイッターもface bookも好きではありません。最近はMSN messengerもほとんど使用しなくなりました。対面以外の人間関係に興味がなくなったのです。最近、情報の「即時性」に全く興味がなくなったのです。時間をかけてじっくり考えぬいて書かれた文章のみが読むに値するものであって、たんなる思いつきで書かれたもの、単に感情を爆発させた言葉は、どれも読む意味がありません。読めばただただ不愉快になって反論したくなるばかりです。だから、私は備忘録として新聞台に文章を発表しますが、実のところほとんど他人のブログは読みません。ブログやネットニュースを読んで腹を立てている時間があったら、1冊でも多くの質の高い本を読んだほうが良いと思うからです。
台湾の若い人もネット相互監視によって縛られているのでしょうか?日本の若い人よりは縛られていないような気がしますが…もっと違うものに縛られているような気もします。私にもし子供がいたら、こういうことに縛られて自由に発想できないような環境で育てるのは大変だなあと思いました。小さなスペースで良いので、日常生活とは異なる、多様な発想に出会える空間をつることが出来たら良いなと思っています。本がたくさんあって、博物館や美術館や劇団の上演情報や、さまざまな社会運動にもアクセスできるような小さな空間を創造したいです。
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