2010-01-07 12:17:14雪子

『情報病』

 

 三浦展の本は読後感が悪いので好きではなかったのですが、この本は今まで読んだ中でも一番読後感の悪くないものでした。そして、この本に書いてある草男の証言は、なるほどと思わせる部分がいくつかありました。彼の証言のいくつかは、私が日本に帰国するたびに感じる「あれ?変だな」と思うことがらの背景を説明するものでした。

以下は抜粋とコメント:

三浦 逆に今はどんな安い物でもブランドを意識せざるを得ないでしょ。三五〇〇円のスニーカー買うのにも、アディタスとかナイキとか必ずブランドを意識するわけで。コーヒー飲むにも普通のぼろい喫茶店じゃなくてスタバとか。そのへんのレコード屋や本屋じゃなくて、TSUTAYAとかブックオフとか、酒飲むのもそのへんの飲み屋じゃなくて名の知れたチェーン店とか。住んでるところも、そのへんの安アパートじゃなくて、なんとかマンションシリーズとか、ただの住宅地じゃなくて、田園都市線とか、全部ブランド。ブランドでもなんでもないものって今はほとんどない。(122)

 

これがもし本当だったら結構ショックです。「スタバ」「TSUTAYA」「ブックオフ」「居酒屋チェーン店」って、私の定義でいけば決して「ブランド」ではないです。実際に入店してもどこの支店に行っても空間も店員の対応も徹底的に標準化されていて、自動販売機と対話しているみたいで雰囲気も悪いし。「スタバ」は2001年くらいまでは楽しい場所だった記憶がありますが、「TSUTAYA」「ブックオフ」「居酒屋チェーン店」についてはそれが選択するべきブランドだって思ったことは一度もないし、入りたいとも思わないです。もっと「自分だけの隠れ家」「他の人には内緒にしておきたい取っておきのカフェ」といった空間を手間ヒマかけて見つけるっていうことをしないのですね。確かに、こういうことを大真面目にするようになったのは、私も外国人になってからですけど。今までは、東京にいたときの私が特別都市空間に対して消極的だったと思っていたのですが、もし上記の分析が正しければ、私が特別怠惰たったわけではないということなのでしょう。

 

 

草男 (笑)......旅行の目的がどっかを見るとかじゃないんですよね。僕とかはもう一人でもいいからいろんなとこ見に行きたいんですよ。だから別に何も気にしないんですけど、たいていの子はやっぱりパリで見るのはいいんだけど、それは友達と見るから楽しいって。

原田 パリにいる私たち、みたいな。思い出消費、見たいな。

草男 そうです、そうです。パリに行った思い出が欲しいみたいな。一人で思いでつくっても、盛り上がらないじゃないですか。mixi日記書くにしても、一人でパリ行ってきましたとかいって、これ書いてもふーんみたいな感じじゃないですか。(156)

 

これも結構ショックでした。私は台湾で繰り返しこういう態度を批判してきたけれど、こういう態度をとる人は天真爛漫だからそうしているのではなくて、真剣に、大真面目に、自覚的にやっているのですね。こういう人たちに、「もっと自分の体で都市空間を感じて見ましょう」って呼びかけるのは大変なことだと思いました。

 

三浦 ......みんなが平等ってのも結構だけど、だれかが突出するのを嫌がる、仲良しのふりをして足を引っ張ってるようなところが、ネット社会の五人組現象に感じられるんで。ま、これは今の若者だけの特性じゃなくて、いつの時代からそうなのかわかりませんが、日本人的な減少ですね。その日本人の悪い部分がネットによって助長されているように見える。いつも群れ続けて、孤独を恐れるというか。『ツァラトゥストラ』のなかでもうひとつ好きなのは「のがれよ わたしの友よ 君の孤独のなかへ、のがれよ 強壮な風の吹くところへ 蠅たたきになることは君の運命ではない」というフレーズ。(162)

 

足を引っ張り合う風潮は、私の中学時代も強烈にありました。でも、まだそういう風潮から逃れることが出来る場もあったと思います。

 

本書は、三部構成になっているが、全体に一貫して言えるのは、情報化した生活が若者のあらゆる行動の大前提、プラットフォームになっているということ、そして、そのことが彼らを自由にすると同時に束縛しているということである。

インターネット、携帯電話に代表される情報化は、本来はビジネスなどの合理化、効率化を進め、消費についても、ネットショッピングのように人々の潜在ニーズを顕在化することが期待された。実際、日本中どこに住んでいても、真夜中であっても、欲しいものがすぐに買える環境が実現したのだから、その分消費は伸びたはずだ。

しかし、物心が付いたときにすでにテレビゲームも携帯電話もインターネットもあった現代の若者にとって、情報化は単に消費を便利にしただけではなかった。それは二十四時間いつでもどこでも友達とのつながりあい、同時に束縛しあうことでもあったのだ。たしかに彼らは情報社会というプラットフォームの上で自由にコミュニケーションし、行動し、行動範囲を広げている。しかし、そうであるがゆえに、コミュニケーションの維持管理に時間と労力がかかりすぎて、他のことに手が回らなくなっているのではないかとすら思われたのである。いわゆる「草食化」、つまり消費や性に対する若者の意欲の減退と呼ばれるものも、コミュニケーションに費やされる時間とエネルギーが負担になっていることが背景にありそうだ

ケータイ以後の若者コミュニケーションについては、選択的なコミュニケーションが増えた、都合のいいときだけつながり、悪いときはつながらないで済ませる、オンオフ的なコミュニケーションが増えたという論がこれまでは展開されてきたと思う。わたしもそのように理解し、コミュニケーションの相手を選択することが若者の全体的なコミュニケーション力を低下させたのではないかと考えていた。

しかし今回、学生の話を聞いていると、そうではないのではないかと思われた。むしろ彼らは、コミュニケーションの相手を選択できない、もうつきあわなくてもいい相手とも関係をきれない、オフにできないでいる。(231-232)

 

つまり、誰と関係を結ぶかについての選択の自由は上昇しているが、関係を維持せよ、一人でいてはいけないという圧力もまた大幅に上昇しているらしいのである。お互いが仲良くしているというと聞こえがいいが、牽制しあって、金縛りになって、何もできないでいるようにも見える。それでも楽しいからいいかと満足している、そのふりをしているようにも見える。(232-233)

 

この本を読んでいて、今の大学生は本当に大変だと思いました。

 

また、消費した物や自分の発言によって他者から突出することも慎重に避けられている。人が知らないことを知る、人の持たない物を持つ差別化が好まれない。そこに一九八〇年代までの若者に見られた個性化、差別化という志向性は感じられない。非常に同調思考が強い。それはすでに一九五〇年代にアメリカの社会学者リースマンが「他者志向」と名づけて以来、「豊かな社会」における若者の特徴であるが、それにしても現代日本の若者の過剰なまでの同調性の高さは一九八〇年代の若者だった私には驚きだ。それはまさに八〇年代の流行語で言えば「ほとんどビョーキ」に見える。本書を『情報病』と名付けたのはそのためだ。(233-234)

 

私は今回日本に帰ってきてまだ10日くらいしか経っていないけれど、こういう雰囲気を強く感じました。それは、書店の本のならびをみても感じました。「みんながおさえているもの、知っているものについてはとりあえず知っておこう/でも、みんなが知らないものについてはアクセスするのをやめよう」という強い意思が感じられたのです。ああ、同じことを感じている人が国内にもいるのね、と思いました。