2009-12-08 17:00:15雪子

非常驚訝、又是文化衝擊

 

以下日文部分是內田樹的文章,我讀了以下部分非常驚訝。我這幾年來一直對台灣知識份子或學術界有不滿,他們總讓我覺得高高在上,只要求其他人英文要好,要懂得國外(美國)的情形,不願意將自己在國外學到的有用的知識和觀念推廣(如透過翻譯),當然不是所有人如此,也有不少很棒、值得尊敬的老師和學生,不過往往因為學術界有如此的氣氛,讓我覺得很不舒服。我總是無法了解,心理想:為什麼他們可以高高在上,知識分子的使命不是推廣、普及知識,跟一般人分享先人的智慧嗎?為什麼從國外回來的知識份子,只糾正學生英文發音,卻不願意把自己在國外讀過的書翻譯成中文給學生看??這不是疏忽怠職嗎?

結果,幾天前我閱讀了如下文章才知道,原來歐洲社會本來就是這樣,知識分子只跟知識分子對話,根本不會想把知識推廣到勞工階級,勞工階級也根本不會想知道知識分子在講什麼。連傅柯也在著作《語言和物》後記中寫道:這本書寫給大概兩千個專家。他根本沒有希望更多不同屬性的人閱讀他的著作。

內田樹說,全世界中只有日本,會有以將國外的知識介紹給平民為主要工作的知識份子,其他國家就沒有這種人。

我讀了這篇文章就覺得:天啊,原來以為台灣學術界很奇怪,實際上我對它的批評並不恰當,日本才是特殊。

我從小目睹像我去年79歲過世的親戚,由於他是農家長子,因此他只有小學畢業從此之後一輩子務農,但他很聰明、記憶力超好,也會閱讀。他生病住院時,我去看他,我目睹他跟我媽在聊國際政治。我想在日本鄉下這種情形應該並沒有特別,我高中老師也曾經跟我們說,去長野縣,不要小看路邊種田的農民,他很有可能是東大畢業(他真的遇過)。

所以,直到閱讀內田的那篇文章之前一直相信,知識應該要開放給所有階級的人,知識份子有義務推廣他們學到的東西。

雖然我還是覺得知識分子有義務推廣知識,但以後不要再氣台灣學術界了。

我很好奇,知識階層和勞工階級完全分裂的社會到底長得怎麼樣??我希望有機會去歐洲看看。目前想去義大利和德國。

<參考>

私はほんとうに受け売りだけでご飯を食べているようなものである。
しかし、この「受け売り屋」というありようを私は日本の知識人の本態的なかたちではないかと思っているのである。「外来の知見」に「ほほ~」と仰天し、それを換骨奪胎加工調味して「ぱちもん」を作り、廉価で読者のみなさまに頒布する。本業にお忙しくて、なかなかむずかしい本にまで手が回らない人々のために、『千早ぶる』の大家さんのようなリーダブルな解釈を加える人たちがそこここにいるという社会は珍しい。私などは『千早ぶる』の解釈を専業にした「大家さん」のようなものである(「大家」さんはちゃんと店賃の取り立てとか、店子の夫婦げんかの仲裁とかしているけれど、私はそれもしていない)。

こういう業態はヨーロッパのような知的階層が堅牢に構築されている社会では存立しない。知識人たちは知識人たちだけで「内輪のパーティ」をやっており、そこで語られることはワーキングクラスにはまったく無縁である。知識人たちには伝える気がないし、ワーキングクラスには聞く気がない。

ミシェル・フーコーは『言葉と物』の「あとがき」に、この本は2000人程度の専門的読者を対象に書いたものだと正直に書いている。ほんとうにそうなのだと思う。それが「たまたま」世界的な人文系学問の必読文献になったのであって、フーコー自身には「ぜひ世界中の読者にお読みいただきたい」というような気持ちはなかった。

ヨーロッパの学問というのは「そういうもの」である。そういうところでは「受け売り屋」や「ぱちもん」の出番はない。私のしているような「架橋商売」が「知識人の仕事」として社会的に認知されうるのはたぶん世界で日本だけである。この「受け売り屋」という業態はきわだって「日本的」なものであり、それゆえ「心底日本人」であるところの私のような人間がこれを天職とするのはある意味当然のことなのである。

私が「コピーライト」というものを好まない理由もそれでご理解いただけるであろう。
あれは欧米的な「発信者」主体の発想である。私どもの国のように「学知の受益者をどこまで増やすか、その層をどこまで厚くするか」という「受信者」の利益を中心に学問が考想されている社会の国情には合わない。私はそう思っている。
來自http://blog.tatsuru.com/