我又來了
この保安宮は、現地のみなさんの信仰の対象ですが、私個人にとってはまったく別の意味があります。そのことについてちょっと書いておきたいと思います。
私は4年前の3月にこの廟をはじめて訪れました。初めて訪れたときも、そして2度目の今回も、その美しさに見とれました。
私にとって「自分の足で台南の街を歩き、目的地にたどり着く/過去に訪れた場所を再訪する/新しい発見をする」ということは、特別な意味があります。それは、4年前までは台南で一人歩きをすることができる日が来るなんて夢にも思っていなかった私、どの道をどのように通っているのか、自分が今どこにいるのかさっぱり分からなかった私、他者に依存せざるを得ない、違う言い方をすれば他者の支配を受けなければこの場に存在することができなかった私が、4年後の今日、私自身が、台南で、自分の意思で目的地を決め、自分の力―例えもっとも原始的な手段である徒歩であっても―で目的地にたどり着けるようになった、そのこと自体が、私の人生にとってとても重要な意味を持っているのです。
そして、4年前に見聞した事物を再訪し、それらが今現在の私にとっても、美しく、意義のあるものなのかを確認すること、この私以外のすべての人にとっては非常にバカらしい作業の一つ一つが、私にこれからも生き延びてゆくための自信と勇気を与えてくれるのです。一種のエンパワーメントだと言えるかもしれません。
また、この確認作業はある種の告発でもあります。私たちの間には決定的な不平等があったにもかかわらず、その不平等から生じるさまざまな問題を、すべて私個人の能力や特性の問題に原因があると決めつけられたこと。その一連の過程を、私は生涯忘れることはないでしょう。
そして、似たような問題は、現在も、これからも一生私に付いてまわるのでしょう。
以上のように、私のこの一連の作業は、確かにエンパワーメントと告発の意味を持っています。しかし、この作業がもたらしてくれたものは、上記の意味をはるかに超える豊かな収穫を私にもたらしてくれました。
私はこの作業を通じて、現地の人の場所に対する思いに多少なりとも触れることができましたし、過去にどんなことがあれ、美しいものはやはり美しいということも確認しました。不安で、苦しくて、悲しくて、辛いときでも、それらの苦痛が過去のものになっても、美しいものは美しいし、居心地の良い場所はやはり居心地が良いのです。ある種のものは、時がたつとその輝きを失ってしまいます。でも、台南の都市の魅力は、4年前の私にとっても、現在の私にとっても同じか、それ以上のものがありました。
まとまらない文章になりました。この文章を中国語にする日は来るのでしょうか?時間のあるときに何とかしましょう。
(内幕をばらしてしまうと、保安宮へは友人につれてきてもらいました。3度目は絶対に一人で行ってみせます。でも、今回、たくさんの場所に一人で行くことができました。それは、私にとって大きな自信となったことは間違いないのです。)