2007-08-22 15:23:45雪子

重要的是「人」【附轉載】未完



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「その時代に、レヴィナスはコミュニズムに対して(レイモン・アロンやアルベール・カミュとは違った仕方で)、それが「正義」と「理性」のシステムを完成させようとしているという当の理由で「否」をつきつけた。
システムが正義や理性を体現することがあってはならないし、そのようなシステムを構築しようと望んでもならない。
というのは、もしそれが可能であったとしたら、正義と理性のシステムが完成したあと、もう個人にはする仕事がなくなってしまうからである。
個人がどれほど隣人に無関心であっても、システムが貧者や弱者をきめこまかくケアしてくれるような体制があったとして、それを「道徳的な社会」と言うことができるであろうか。
中にいる人間がどれほど不道徳であっても、道徳的に機能するシステムを人間は作り出すことができるのであろうか。」

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2007.08.22
レヴィナス先生、こんにちは
ゲラの山が二つに減ったので、レヴィナスの『困難な自由』の校正にとりかかる。
今年のはじめくらいに受けとったまま、次々やってくる急ぎのゲラに押しやられて、これまで日陰の身に甘んじていたのである。
すまない。
私の本のゲラなんか、ほんとはどうだってよいのである。
レヴィナス老師の翻訳を一日でも早く出すことの方が出版史的には比較を絶して重要性が高い仕事なのであるが、なかなか世の中はそのような常識が通らないのである。
今回の『困難な自由』は1963年の初版を底本としている。
これはもう入手が不可能であろうと思われていたのであるが、奇跡的に発掘されたのである。
そしてここには再版では削除されていた論文が七つ収録されている。
これは今回はじめて訳出される。
再版に際して削除した理由はよくわからない。
論文のいくつかはソ連型社会主義とそれに拍手を送っていたフランスの左翼知識人に対する批判である。
1950年代のフランスの左翼知識人と共産党の圧倒的「威信」について、政治史的知識しか持っていない読者には、この批判が当時どれほど「大胆」なものであったか想像することはむずかしいであろう。
現代日本に暮らしている私たちはこれに類する政治的=思想的な「圧倒的威信」というものをもう知らない。
その政治的=政治的実践が「理性」の現実化そのものであると自称することを誰も止められないような巨大な運動を私たちはもう知らない(「日米軍事同盟は日本の生命線だ」というようなことを心のそこから信じている人の頭にはそれに類するものが存在するかもしれないが、彼らだとて、アメリカの覇権が世界の終わりまで続くと信じてはいないであろう。けれども、1950年代に社会主義が「歴史の終わり」だと信じている知識人は世界中に存在し、教壇やメディアの一隅を支配していたのである)。
だから、ここでレヴィナスが何に抵抗しているのかを現代日本の読者は想像的に追体験することはむずかしい。
ボーヴォワールという人は『第二の性』というフェミニズムの古典ばかりが有名だが(それさえもう読まれないが)、彼女の『娘時代』や『女ざかり』といった回想録は1940-50年代のフランス知識人の「混迷」ぶりを知る上ではまことに貴重な証言である。
それを読むと、リアルタイムでの「ソ連」の威信とそれに対する知識人たちの恐怖(しばしば原爆と強制収容所に対する恐怖が彼らを共産主義者にしたのである)がどれほどのものであったかが偲ばれる。
その時代に、レヴィナスはコミュニズムに対して(レイモン・アロンやアルベール・カミュとは違った仕方で)、それが「正義」と「理性」のシステムを完成させようとしているという当の理由で「否」をつきつけた。
システムが正義や理性を体現することがあってはならないし、そのようなシステムを構築しようと望んでもならない。
というのは、もしそれが可能であったとしたら、正義と理性のシステムが完成したあと、もう個人にはする仕事がなくなってしまうからである。
個人がどれほど隣人に無関心であっても、システムが貧者や弱者をきめこまかくケアしてくれるような体制があったとして、それを「道徳的な社会」と言うことができるであろうか。
中にいる人間がどれほど不道徳であっても、道徳的に機能するシステムを人間は作り出すことができるのであろうか。
このレヴィナスの問いかけの深みは当時のフランスの読者たちにでさえほとんどその緊急性が理解できなかった。
だから、現代の日本人読者に十分な理解を求めるのは至難のことであろう。
けれども、これは今ここでただちに読まれねばならないテクストの一つであると私は思う。
ひさしぶりに(何年ぶりであろう)レヴィナスのテクストを仏和辞書を片手に翻訳をする。
あいかわらず関係代名詞と無冠詞名詞と同格形容詞と条件法のからみあいが無限に続く悪夢のような文章である。
でも、この悪夢の果てに、戦慄するような叡智のことばが浮かび上がるのである。

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