2007-06-11 19:49:31雪子

自以為是...

不好意思 我沒有力氣花更多篇幅說明這個圖片
我覺得這個圖片很諷刺也很有趣
這個現象其實在日本大都市到處看得到
大家以為自己的style獨一無二
其實他們的外表和心態跟上面圖片所顯示的差不多
我第一次看到這個圖片時馬上覺得
這就是日本社會!!


図6-10「スケートすべきトップ10の理由。NO-6:それはキミだけがもつ個性的スタイルの表明だ」。パウエル-ペラルタ広告(1992年)

「サブカルチャーと街」

とりわけ、象徴と社会的関係は潜在する矛盾を隠す虚飾となる。スケーターたちは、規範的な労働パターン、服装、音楽などの伝統的パターンから脱出しようと試みる一方で、制度化された機関を寄せ付けないよう努めてきた。そういう機関としては、・・・・・・などがある。他方では、スケーターたちは、振る舞い、言葉の構成、服装、商取引などからなる半慣習的な独自の決まりを定めた。とりわけ手製の同人誌、たとえば・・・・・、現代における世界と街の脅迫的な不安感と向きあっての快適な安心感を作りだそうという傾向があった。・・・・・・このような観点に立てば、一種のカウンターカルチャーによる安定性の追及はさらにたやすく理解できる。たとえば、スケートボーダーたちの服装は判で押したように類似していて、すべてが「野球帽・Tシャツ・半ズボンで例外なくダボついたユニフォーム」である。あるいは、1997年の春のある日、オスロの「ラドハウス」(市庁舎)の外にいた50人ぐらいのスケーターたちのほぼ全員が、同じ種類のバギー・パンツ、Tシャツ、毛糸の「ビーニー」帽を身につけていた。あからさまにカウンターカルチャーであろうとなかろうと、こういうことは偶然ではなく、特定の(ジェンダー化された)アイデンティティの構築に役立っている。その結果、「彼らでありつづけるやり方、彼らであろうとし続けるやり方において、彼らの話し方、身振り、日常的な習慣において奇妙に似通っている個人の退屈で滑稽な繰り返し」をスケーターたちはまさに彼ら自身のなかで[内面的な姿勢、外面的な服装を]複製できることとなる――1990年代前半、パウエル-ペラルタの広告の一つでパロディ化された状態だ。(pp217-218)




本文等一下再補
不好意思



スケートボーディング、空間、都市
身体と建築

イアン・ボーデン著
斎藤 雅子訳
中川 美穂訳
矢部 恒彦訳

税込価格 : 5,775 (本体 : 5,500)

http://www.amazon.com/Skateboarding-Space-City-Architecture-Body/dp/1859734936/ref=pd_bbs_sr_1/104-1116158-4267101?ie=UTF8&s=books&qid=1181573961&sr=1-1
memo

こうした若者世代を、ルフェーヴルは「権威が行使する圧力に対する、そして確立された『現実』のすべてに対する―盲目的あるいは意識的な―憎悪」をもつ世代、「もはや冷蔵庫や自動車では誘惑もされなければ、満足も感動もしない」世代として特定している。(p208)

スケートボーダーたちは支配的な秩序における価値観のなかにユーモアを見つけ出すが、この点で彼らは、若者に対するルフェーヴルの政治的予期の一つを直接満たし、礼儀、敬意、これみよがしの健康などを嘲笑する。(p210)

スケーターたちは、両親がそれに加わるようにと求める模範的な成人像を拒む。そうすることで、スケートボーダーたちは子供か大人かといった二者択一を拒否し、そのいずれにも帰し得ない第三の状態を作り出す。(p214)

スケートボーディングは規範的なライフスタイルを批判するが、その一方で、純粋に社会的な活動としてみたとき、スケートボーディングは規範的ライフスタイルを複製しがち、またはパラレルなスタイルをつくりがちで、「それ自身のしきたりと儀礼を備えた代用社会構造」を作り出す。もしくは、アントニオ・グラムシの用語によれば、スケーターたちは支配的集団から自分たちへと概念を転移することに積極的に同意する。(p220)

というのも、空間の生産を通じてのみ異なる社会集団は[自分自身の生活をコントロールできる]住民としての自分自身を形成できるからだ。そうでなければ、社会集団は単なる記号にとどまってしまう。自力でアイデンティティを想像し、持続させ、再生産させるためには、集団は空間を鏡として使用することはできず、空間を歴史的過程の一部として流用しなければならない。(p221)

スケートする都市アナーキストは、政府/都市公団の作品を、もともとの建築家が夢にも思わなかったような何千通りもの手口で活用する。駐車用歩道、ドライブ用ストリート、排水用パイプ、廃棄物用下水溝など、すべてが新しい社会秩序へと再加工されている。(p228)

街の豊かな建築的、社会的な組織は、スケートボーダーたちにきわめて大量の建物、社会的関係、時間、空間を提供していて、その多くが自由にアクセスできる。そして、ストリート・スタイルのスケートボーディングは、結果的に「我々の街が提供する限りない可能性」を暴き出しているのである。・・・しかし、どの空間の、どの関係に入り込むかを決定するのは容易なことではない。それは、活動場所や経済状態だけでなく、時間、交友関係、ジェンダー、人種、年齢、文化、イデオロギーによっても条件づけられるからだ。とりわけ、都市的スタイルの感覚だけに基づいて、この決定をすることは困難である。というのは、都市生活のあらゆる側面に商業主義がはびこり、建築の形式的「スタイル」や、ファッションや食べ物などの商品化された「ライフ・スタイル」を超えた経験によるスタイルを、我々はほとんどもっていないからだ。(p240)

このようにして、イデオロギー的な最前線や記念碑的なところより、むしろ、スケーターたちはたいてい意味や象徴性を欠く日常空間を好む―ストリート、小さいロータリー、都市広場、小さいショッピングモールの空間など。ちょうどグラフティ・アーティストが目立たぬ場所を追い求めるように。(p242)

しかし、この明示的な意味のない空間とは、厳密にはどのようなものなのだろうか?何よりも明らかなのは、そういった空間はモダニストの計画が取り残した空間であり、あるいは、目につくイコノグラフィによってではなく、その空間の発展性を解して象徴化される意思決定の空間だ(典型的には都市広場)。ルフェーヴルはロラン・バルトにならって、これらを零度の空間とみなした。そこは言葉の零度(日常の語り)、物の零度(機能的な物)、空間の零度(交動線、街の中央部の閑散とした空間)、要求の零度(予測され、あらかじめ満たされている)、時間の零度前もって存在する空間に基づいて計画され、編成される)である。(p243)

俺達は便利さという聖なる原理に支配された、面白味のない文化のなかで暮らしている。身の回りのすべてが、毎日の生活の最もありふれたものまで、時間を使う意識的な関わりを確実に最小限にするために、事前に計画され、用意され、パッケージされているんだ。(p244)

このような建築を経験する者にとって、ほぼ共通する還元的な効果がある。バルトの「零度」の概念においては、シンボルの中性化は、それが何であるかを単なる目撃者のごとく冷たく述べる。建築的な観点からは、質的な差異の欠如とそれに付随する指示の氾濫は、陳腐な単調さとして、創造的な芸術作品[(oeuvre):居住者によって束の間の芸術作品となりうるような街]としての特質、流用できる特質を失ってしまった都市として経験される。「日常生活の貧困」は、伝統的都市がもつ象徴性、時間、リズム、異なる諸空間を、居住単位と交通規制のほか何ものにも置き換えることができなかったという失敗から生じている。

このような場所では、大都会の居住者は、街が持つ機能の単なる目撃者である。そこでの都市空間の経験は美術館での経験にも似て、訪問者の身体は、企図された順路、速度、身振り、語り、音などの「組織化された歩行」によって制御されている―この状態をあるスケーターは、「怪我防止の詰め物で守られたテレビ番組的な世界」と呼んだ。(p245)

しかし、無抵抗と倦怠のみがこのような還元的建築に対する反応なのではない。ミルトンキーンズのような零度の「コンクリート狂」の場所への抵抗が、建物の外k部で、ストリートで起こる。私有化された都市空間においてルーチーンとなった現象と、それに伴う都市体験の平和化に抗して、異質な空間と時間を演じることで、その街に立ち向かうのだ。(p245)

たとえば、手摺りは非常に機能的な物体で、その時間と用途は完全にプログラムされている。それは―消火栓、バス停のベンチ、歩道、交通信号機のように―信号であり、一方的に我々を条件づけ、会話など不可能な、厳密で有無を言わさない功利主義の物体からなる都市の意味場にあるエレメントである。このようなエレメントそれ自体は意味をもたず、ただメッセージを告げるだけだ。(p247)

信号が直接的な意味を超えた表現力をもたないところで、スケートボーディングは生きた発話であり、スケートボーダーにとっては都市における可能な言語のひとつとして、個人的に話す方法なのである。スケートボーディングは、零度の建築における意味の空白に対する批判である。(p249)
雪子 2007-06-15 23:45:15

補充:

在這個網站看得到作者在玩滑板的情形:
http://www.youtube.com/watch?v=PSYqTglUReI

看起來他是個很可愛的中年男人!