2006-07-07 21:27:00雪子

國外有!?

暑假開始後強迫自己離開研究室,還好剛好有台北電影節,每天有想看的電影,所以即使跟朋友沒有約,也不用擔心整天在宿舍發呆。看完電影之後還可以請朋友喝星巴克的冰飲料。

在這幾天來看了三部外國片:韓國《求婚遠征紀》、瑞典《離婚快樂守則》、巴西《貧民嘻哈王》,明天要看捷克《布拉格狂想》,如果還有體力的話,也要看加拿大《失億老人院》。看這些片之後似乎可以了解為什麼台灣學生說「台灣沒有,國外有(好的)」。

這幾個月來我每次聽到台灣學生說「台灣沒有,國外有(好的)」的時候會感到焦慮,心裡想,「我一直覺得來台灣看得到在日本看不到的台灣的(好的)東西,能更接近台灣,很奇怪,為什麼大家不珍惜台灣的東西呢?台灣人不支持台灣貨,誰能肯定台灣貨呢?」。

我終於知道自己搞錯了。
讚美國外貨的他們並不一定是崇洋哈日哈韓。就像在台北電影節上演的國外電影,都是經過篩選的,參與這次電影節的門檻比國片高,具有普遍價值的機率比較高。
我本來單純地以為貼近自己生活的片子會更讓人感動,可能並不一定是如此。

所以我蠻認同內田樹的以下的說法。等我有力氣再翻譯。

若いライター志望の人に読書上のアドバイスをひとことと頼まれたので、次のようなことを申し上げる。
できるだけ今の自分と生きた時代も生きた場所も縁の遠い人間の書いた本を読むこと。
世界観も宗教も感受性も身体感覚も、まるで違う人のものを読んで、それにぶるぶるっと共振するものが自分の中に見出せたら、その震えは「人間にとってかなり汎通性の高いもの」だということである。
ある種の書物が歴史の風雪に耐えて何千年、何百年と生き残ってきたのは、そのような共振力が他に比して圧倒的に多いからである。
古典的名作というのは「とっつきにくく」て、同時代の同じような年齢で同じような立場で似たような趣味好尚の書き手が書いたものは「わかりやすい」というのは嘘である。
同時代的な意味で「わかりやすい」書物は構造的に読者を排他的に限定している。
その「敷居の低さ」は、時代を異にし、場所を異にし、立場を異にする読者にとっての「わかりにくさ」を際限なく高めることを代償にして得られた幻影にすぎない。
古典を読むことで学ぶことができるのは、数百年の時間と数千キロの距離を隔ててなおリーダブルであるようなものを書いた人間の「リーダーフレンドリーネス」である。
私はいつもそれに驚嘆する。

「おとめごころを学ぶ」2006年07月05日
http://blog.tatsuru.com/

推薦看《貧民嘻哈王》!
http://favelarising.com/default.php
雪子 2006-07-07 22:45:30

這算不算是「學會圈內人觀點」?