2011-03-06 15:59:49Akizora

台湾の二宮金次郎像

台北支局 源一秀

 終戦まで50年にわたり日本が統治した台湾。赴任から2年、各地に残され古い建造物、碑などに日本の面影を見てきた。しかし、幼少より勤倹力行の象徴として敬ってきたあの方の像が、日本の精神をいまも台湾各地で伝え続けているとは。

終戦   しゅうせん    統治  とうち    赴任  ふにん

残される  のこされる   面影  おもかげ   幼少  ようしょう

勤倹力行  きんけんりっこう    象徴  しょうちょう   敬う  うやまう

 

 初めてお目にかかったのは、1年前だった。石像があるとのうわさの真偽を確かめるべく足を運んだ台北近郊の観光地、金瓜石の道教廟「勧済堂」の敷地内。約1メートルの像は遠目に見ても明らかだった。読書をしながらまきを背負って歩く少年像。そう、一昔前なら小中学校の校庭の風景の一部だった二宮金次郎像だ。

石像 せきぞう   真偽  しんぎ   確かめる  たしかめる

敷地内  しきちない   遠目  とおめ  読書  どくしょ  背負う せおう

一昔  ひとむかし   校庭  こうてい  風景  ふうけい

 

 二宮は江戸時代後期に生まれ、農民から幕臣にまで昇格した立志伝中の人物。報徳、勤労の生涯を貫き、600余りの貧困村を救った。内村鑑三の表現を借りれば「代表的日本人」の一人だ。

農民  のうみん  幕臣 ばくしん  昇格  しょうかく  立志伝中 りっしでんちゅう

報徳 ほうとく  勤労  きんろう  貫く  つらぬく   貧困村 ひんこんむら

救う すくう   

 

 懐かしさに駆け寄るや、思わず吹き出してしまった。なぜって、貧しいはずの二宮少年が余りにもふっくら顔で、おまけに福耳ときていたから。現地の日本語世代のお年寄りに由来をたずねた。像は1936年、廟の工事をした際、大陸から招いた石工に、台湾人父母らが「近所の(日台の)子どもたちの教育のために」と作ってもらったものだという。

懐かしい  なつかしい  駆け寄る かけよる  吹き出す  ふきだす  

貧しい まずしい   余り  あまり  福耳  ふくみみ  招く  まねく

  

 日本のイメージと異なるのは、吉祥を像に込める中華的創造力のたまものだろう。当時の父母の思いにも感じ入り、自身の不謹慎を恥じることになった。ただ、これがきっかけで、台湾全土に散らばる二宮像をたずね歩くことになった。

異なる  ことなる   吉祥  きっしょう   創造力  そうぞうりょく

不謹慎 ふきんしん  恥じる はじる   散らばる  ちらばる

 

 最も巨大だったのは、屏東県長治郷の長興小学校にある。同小OBらが2005年、50万台湾ドル(約140万円)を出して、骨董商から購入、寄贈した高さ約150センチの銅像だ。日本統治時代から残る鋳型で作られたものという。

巨大 きょだい   購入 こうにゅう  寄贈 きそう   銅像 どうぞう

 

当時、贈った側にこれが二宮だと知る人はいなかったという。同小には中国大陸の中原を起源とする客家の子弟が多く通う。「客家の美徳である質素、勤労、勤勉を見事に体現した彫像。誰なのかなんて関係はなかった」。ただ、この像も見事な福耳で、髪形はまげではなく仏像を思わせる。

起源 きげん   通う かよう  見事 みごと  体現 たいげん

仏像 ぶつぞう

 

 小型のものでは、桃園県の平興小学校の校長室の書棚に、戦前のものと見られる約40センチの銅像がある。これは純日本風だ。二宮の偉業を知る元校長が骨董屋でたまたま見つけて購入、寄付したもの。貧しい先住民子弟が多く通うため、「貧しくても二宮さんのように努力を重ねれば報われる」ことを生徒に教える教材となっている。

小型 こがた   書棚 しょだな  偉業 いぎょう  寄付  きふ  努力 どりょく

重ねる かさねる   報いる むくいる  

 一体どれだけの新旧二宮像が台湾にあるのか、定かではない。戦中、台湾各地にあった銅像は戦時供出で撤去され、残った石像のほとんどは、戦後、大陸から渡った国民党政権に破壊され、孔子像や蒋介石像に変えられている。戦前からのものは、特に希少であることは確かだ。

希少  きしょう   撤去 てっきょ  

 

 それだけに、出会えた喜びは格別だ。台湾で地方へ出かけるたび、地元民に心当たりはないかをたずねるのが習慣となった。日本風二宮像もいいが、ユーモラスな中華風二宮像の魅力もたまらない。日本のモノだというのに、日本では味わえない楽しみだろう。

出会える  であえる  格別  かくべつ   心当たり  こころあたり

魅力   みりょく   味わえる  あじわえる

             2011年1月28日  読売新聞により