2010-07-01 23:15:58Akizora

短文練習

感じること、考えること

ここしばらく政治に関する硬いテーマが続いたので、今回は少し視点を変えて、「感じること」と「考えること」について考えてみたいと思います。

 「感動」ということばがあります。音楽を聴いて心がふるえる、映画を見て涙を流す、小説を読み終えて深い余韻に浸る。人はさまざまな形で感動を経験します。その感動を一人ではなく、多くの人と共有する場合もあります。

 でも感動の多くは一時的なものです。それは池の面に広がる波紋のように、時間とともに徐々に弱まり、やがては消えていきます。何かを見て、読んで、経験して、深くこころが動いたとしても、いつかそれらは消え去ってしまう。その忘却作用に逆らうように、感動の意味を自分なりに考えてみたい。そう思ったことはないでしょうか。

 感動は「その場限り」のものでもあります。同じ場所で同じ経験を共有していれば、「感動した」の一言で気持ちを通わすこともできます。でも、その感情をその場にいない人にそのままの形で伝えることはできません。

 一時的で、その場限りのものである感動をもっと長い間持続させ、その場にいない人たちにも伝えることはできないだろうか。そう思った時、「考える」という作業がはじまります。そして、文章を書くという営みも、そこから生まれてくるもののように思えます。

 感動を伝えるためには、その時々の気持ちをただ脈絡なく示すだけでは不十分です。ばらばらの感情がこころの中にただよっているというのでは、こころの状態を正しく伝えることはできません。その時の感情がどういう「流れ」に沿って動いているか、どのような「つながり」を作っているか、それを示さなければ、感動を伝えることはできません。そういう「流れ」や「つながり」を伝えるためには、「考える」作業が必要になる。私はそう思います。

 この「流れ」や「つながり」を意識することこそ「考える」ことの本質であり、そのひとつの表れが「論理」である。だから、「感動」と「論理」とはけっして無縁なものではない。むしろ深いつながりがあるといってもいいのではないでしょうか。

 「感動は人間的であたたかな感情の発露であり、論理は人工的で冷たい記号の連なりである」

 感動と思考、感情と論理をそのように区別してとらえる見方もあるでしょう。でも、私はこの二つの世界の間に何らかの形で「橋」を架けることができるのではないかと考えています。

 

                読売新聞2009年12月10日(木)朝刊により

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