後にイザベラがエレナ
後にイザベラがエレナに語った所に依れば、そもそもハイジラはナーザレフとソンレーロの虐待拷問により精神が完全に壊されており、自我の欠片も持てない、ただ刷り込まれた恐怖の念で動かされいる木偶人形状態のはずで、その治療には長い年月を掛けての理性的判断力の涵養と自我の形成が必要で有り、それを経て初めて人間としての感情が回復できるはずだった。しかも完全な回復はかなり困難で、精々人間もどき程度まで回復すれば良い方だという絶望的な症状のはずであったというのである。
それがロキの演説に対してハイジラが示した反応は、その症状を根底から覆すものであった。
先ずハイジラのロキへの発言はロキの演説の内容と照応している。つまり正しくロキの言葉を理解しているという事になる。それはハイジラにきちんとした弁識能力が備わっているという事である。ロキの演説は極めて抽象性の高いもので、多くの言葉が省略されている。ハイジラのように価値観を破壊され、物事の善悪どころか自分自身の生存の本能に係る部分にまで激しい抑圧操作を受けた者には正しく伝わらないと理解されるべきものなのである。
それがどうやらハイジラの反応からは発言者のロキの心の底に流れている本質的な思いの部分にまで思考と理解が及んでいると読み取れたからである。 次にハイジラは自分の希望を述べた。疑問の形ではあるが、そこに意思の表明が見えるのである。
人の話を理解し、自らも意思を持ち、かつそれを表現する事が出来る。
この頭脳を正常以外の診断が出来るであろうか。言語を発した事自体に驚きを生じたほどのハイジラの精神状態であったのである。
まるで何かが降って湧きハイジラの精神を別の物に作り替えたとしか思えない。
と後にイザベラはエレナに述懐した。
それは後日の話である。今は、
「治って来ている可能性は有る。エレナ、大事に見守っておくれ。」
とだけエレナに言った。
「勿論ですとも、我が妹の事なれば。」
とエレナは胸を叩くような雰囲気で答えた。
そうだった。変な行き掛かりではあったが、そんな事になっちまってたとイザベラは可笑しく思い出した。
ここの所、ボルマンスクの統治に忙殺されて煩わしい雑事ばかりの無味乾燥なエレナの日々であったが、この日は幾つもの目を驚かせる事が纏めて起こっていた。
最後にもう一つ、小さな出来事があったので付け加えて置く。
この後、イザベラ、ロキの順にエレナの部屋を退出したのであるが、退出間際のロキの雰囲気に少し違和感を感じて、後ろから様子を窺った。
部屋を出て、少し歩くと不意にロキは立ち止まった。小さく肩を震わせている。
「ロキさん、どうかしたのですか。」
エレナは背後から声を掛けた。
「えっ。」
とロキは振り返ったが、何と眼を赤くし、少し涙を滲ませていた。
「まあ、その顔は・・・・・・。」
とエレナは心配になった。
「いやあ、何でも無いよお。」
とロキは慌てて袖口で眼を擦った。
「ただねえ、この内乱が収まったら、オイラはゲッソリナで商売を開始する。そうなるとハンベエには付いて行けないから離れ離れになっちゃうよおと改めて気付いたら、不意に何か込み上げて来たんだよお。オイラとした事が。」
とロキはバツが悪そうにした。
「例え離れ離れになろうとも、あのハンベエさんがロキさんの事を心を止めない日が来る事は有りませんよ。きっと、この先も何度も何度も再会する事でしょう。」
とエレナは言い、多感な子なのだと優しくその肩に手を置いた。 十日の後、エレナ、イザベラ、ロキ、ヒューゴ更にハイジラの五人はレンホーセンとその騎馬傭兵部隊に護られ、ゲッソリナに到着した。