2007-11-07 17:59:41janet

怒り

先週専門学校の先生と相談した。入試、ビザ、学生などについていろいろ伺ったが、話しているところ、“結婚”という言葉が時々出てきた。例えば、結婚する予定はいつでしょうか?このような発言に興味を持つので、先生に「どうして“結婚の場合とか、結婚なら”という言葉がよく言いましたか?結婚と進学の関係は何でしょうか?」と聞いた。先生は「君が結婚したら、家事で忙しいから、勉強が出来なくなってしまう場合がよくあるでしょう」と答えた。

「家事と勉強の両立ができるかどうかが私自身で判断できるから、ご心配なく、普通な学生に扱ってくれればありがたい」と心から叫んだ。どうして私に結婚についていろいろな質問を聞いた?私が男性なら、このような質問が出てくるか?

そして、昨日願書を提出するため、もう一度学校へ行った。自転車の駐輪場について伺ったが、先生から「自転車は危ないよ。できれば、バスや電車を利用してください」と言った。もし、事故に遭ったら、この事故に対し、学校の責任がないから、どうして自転車に乗らせてくれないだろうか?また私を“子ども扱い”すると感じた。

今年3月スウェーデン教師が台湾に訪問した。あの時、一人の教師から「どうしてどこへ行っても、勧告の音声、例えば、黄色の線まで電車をお待ちくださいとか、顔、手を出さないでくださいとかが流れているの?」という質問があった。「日本に行ったら、このような勧告はもっと多いよ」と答えた。確かに、日本に来て、一番驚いたのはどこへ行っても音声が流れていることである。とてもうるさい。日本の専門家によると、これは責任転嫁という仕組みだと考えられる。「もう警告したから、もし何があったら、君自身の問題である。私との関係がない」という考え方だ。その結果、誰でも責任を取らなく、無責任な社会になってもおかしくない。

先、専門学校の先生の考え方も同じだろう。もし、自転車事故があったら、面倒くさいから、最初からやめさせたほうが一番簡単だからだ。どうして大人の私が自分で決められないの?学校として学生にいろいろな情報をあげて、責任を取らせるのは教育の一環ではないじゃないか?

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