2014-10-26 20:38:24MEGU
如水「水の如く」
●水五訓(水五則)
一つ、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一つ、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一つ、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一つ、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
一つ、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり
一つ、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一つ、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一つ、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一つ、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
一つ、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり
雨となり雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となり
たえるも其性失わざるは水なり
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
第43回「如水誕生」
“人は殺すよりも使え”―― 黒田官兵衛は、戦国乱世にあって一風変わった男だった。生涯50数度の合戦で1度も負けを知らなかった戦の天才だが、槍や刀で人を殺すのではなく、智力で敵を下す、それが官兵衛の真骨頂だった。
信長、秀吉、家康の三英傑に重用されながらも、あり余る才能ゆえに警戒され、秀吉には自分の次の天下人とまで恐れられた男。それでも乱世を見事に生き抜き九州・福岡藩52万石の礎を築いた男、黒田官兵衛。
和歌や茶の湯を愛した文化人であり、敬虔なクリスチャンとして信仰を貫き、側室を持たずただ一人の妻と添い遂げた律儀な男。一方で、権謀術数渦巻く戦国時代にあって、巧みな弁舌と軍略で秀吉を支えた冷徹な軍師。
播州姫路に生まれた地方大名の家老はいつしか、天下一の軍師へと変貌する。それは、乱れた世を正すために、時代がこの男を必要としたからかもしれない。
黒田孝高 (黒田官兵衛. 黒田如水)
黒田 孝高(くろだ よしたか)
は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。嫡子は福岡藩初代藩主黒田長政。
1546-1604 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)15年11月29日生まれ。黒田職隆(もとたか)の子。織田信長につかえ,のち豊臣秀吉の軍師として中国,四国,九州の攻略に功をたて,豊前(ぶぜん)中津(大分県)12万石をあたえられる。関ケ原の戦いでは子長政(ながまさ)とともに徳川方に属した。慶長9年3月20日死去。59歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。前姓は小寺。通称は官兵衛。号は如水。
諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(読み同じ)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
孝高に関する話は、ルイス・フロイスなどの宣教師、菩提寺の崇福寺住職景轍玄蘇といった直接面識のあった人物の記述の他、『川角太閤記』(川角三郎右衛門著、江戸時代初期)、『名将言行録』(岡谷繁実著、1869年)、『黒田如水伝』(金子堅太郎著、1916年)などによる、伝聞を記述された物も多く知られる。備中高松城水攻めと中国大返しは孝高の献策などといった話は、黒田家の命において寛文11年(1671年)に編纂を開始された『黒田家譜』(貝原益軒著、1688年)以降の逸話である。
また慶長5年10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」とある。今日の野心家・如水のイメージはここからきていると思われる。