2017-06-24 22:55:10紅愀鵲

寶誌禪師



京都,西往寺

佛本是自心作,那得向文字中求 ---釋寶誌

 寶誌禪師,每每找資料都會看到一些很奇妙的佛像,有時候真的覺得日本是個很奇特的國家,我已經看過很多個怪佛像都是在這個國家造成,到底他們是有多壓抑,老是造出奇怪的像,他們也很喜歡幫禪師造像,我倒是覺得這是一種很奇特的行為,因為佛其實都說無形像,其實就跟基督教一樣,只是給人一個外相比較容易信守,這是因為人有眼睛,只相信眼所及的,所以才總說眼見為憑,但眼見得真的為憑嘛!?眼不見的真的為假嗎!?這又是一個很大的問題了,但奇怪了,這個佛像怎麼又會在日本!?

 

可能因為他也屬於禪宗的背景,也有一說他比馬祖還早,日本禪宗還是算是很大的一個支派,所以可能才因此而有了這個像吧!?但時代背景好像又不太對,因為禪宗入日本應該沒這麼早,查過了至少西元800年的時候就日本僧人來傳禪了,或許那時候就已經開始了,如果就這樣的推論下,應該就成立了,因為是十世紀的像,而實在的證明也不可考了,因為我的日文還不夠好到可以完全解釋清楚這一切的狀態阿,不過就是看到這樣的像,很有感覺,畢竟就像是告訴你所有的原型都不見得是真,因為相由心生,誰人知道真實,或許只有心才知道,所以宗教信仰也是,遑不論其他.

 

是說連日文都有文言文,我也是醉了><

 

 

以下補充資料:

 與達摩、傅大士合稱「梁代三大士」

武帝恭請誌公結集佛經撰懺悔文十卷,武帝依照懺本為皇后拜懺將功德回向。一日,禮懺畢,郗氏便現天人相向武帝拜謝:「承蒙皇帝為我作功德,現已超生忉利,今特來致謝。」」《梁皇寶懺》至今已有一千餘年歷史,是中國流傳最久的一部懺法,素有「懺中之王」的美稱,也是佛教中最被重視的懺儀。

禪師於天監十三年十二月示寂,世壽九十六。敕葬鍾山獨龍阜,於墓側立「開善寺」。諡號「廣濟大師」,後代續有追贈妙覺大師、道林真覺菩薩、慈應惠感大師、普濟聖師菩薩等號,也因寶誌禪師與晉朝佛圖澄相似,常現神通度人,而有許多神異事蹟名世。

即心即佛的提出。對於即心即佛理論的提出,學術界一般都將之歸功於馬祖道一,其主要依據是《景德錄》卷七中大梅法常傳的記載。今謹將這段文字抄錄如下:大寂聞(法常)住山,令一僧到,問雲:和尚見馬大師得個什麼便住此山?師雲:馬師向我道即心是佛,我便向遮裡住。僧雲:馬師近日佛法又別。師雲:作麼生別?僧雲:近日又道非心非佛師雲:遮老漢惑亂人,未有了日。任汝非心非佛,我只管即心即佛。其僧回,舉似馬祖,祖雲:大眾!梅子熟也。其實,馬祖的開示學人,主要是心外無別佛,佛外無別心至於即心即佛理論的提出者,還應該是寶志禪師。但此馬祖是馬素,不是道一

日僧最澄,在德宗貞元末年(八0四)到中國來。最澄所傳的『內證佛法相承血脈譜』中, 「天臺法華宗相承師師血脈譜」,在鳩摩羅什下,北齊慧文前,列入傅大士,竟以傅大士為天臺 宗列祖之一(望月大辭典三九八一)。

宇治拾遺物語》(うじしゅういものがたり),日本古典故事集,約成書於13世紀前葉。全書有15巻、共197篇故事,故事的舞台大多以中國印度、日本為主。作者不詳。一般認為是與「宇治大納言」之稱的貴族源隆國所撰寫之《宇治大納言物語》成書同一年代,「宇治拾遺物語」可能是它的加筆、增補,或是拾遺集。

 

日本學者牧田諦亮曾作《寶志和尚傳考》,不僅對寶志(或作保志、寶志)的生平作了些梳理,並且指出其成為了十一面觀音菩薩的應化①,而在漢傳密宗裡佔有一席之地。這使世人對寶志在中國佛教史中的地位有了新的認識。本文在牧田先生研究的基礎上撰寫,除了在史料上就寶志的形象有所補充外,鑒於寶志也是一位禪僧,對於其形象在漢傳密宗與禪學合流中的意義和如何成為佛教史上的一位重要人物亦欲有所論說。

 

 江戸時代、1687年、仲秋の正日、宝誌立像は、光舟が伊豆国庭冷山(天嶺山?)より当寺に遷したという。(縁起)
◆宝誌 中国南朝の伝説的な僧・宝誌(ほうし、418-514)。説話は諸書にある。宋代465年頃に、都の建康郊外の鍾山に現れた。建元年間(479-482)より長髪に裸足で徘徊し、錫杖に鏡などを下げていた。酒肴を口にし、何日も食しないこともあったという。予言を行い、人の死を予期し、心中を言い当てた。分身し一時に数所に現れる。華林園内の仏堂で没したという。武帝は鍾山に開善寺を建立し、菩提所として手厚く供養する。また、人々が信奉したため、南斉の武帝は獄舎に捕えた。だが、保誌は分身し市中に現れ、予言した。武帝の亡き父・高帝が地獄で錐刀の極苦を受けている様を見せ、帝は錐刀の刑罰を止めた。建元年間(479-482)より宮中への出入も容認されたという。
 日本の『宇治拾遺物語』巻9には、宝志和尚として登場する。帝がその像を残そうとし、3人の絵師に描かせた。宝志は絵師たちに真影を見て描くようにという。宝志は、親指の爪で自らの額を裂くと、中より金色に輝く菩薩の面相が現れた。絵師の一人は十一面観音に、また聖観音にも見え、各々写し取り、帝に献上した。帝が宝志のもとに使者を遣すと、宝志は姿を消していたという。
◆仏像 かつて、平安時代、11世紀の木造「宝誌(ほうし)立像(宝誌和尚立像)(重文)(159cm)を安置していた。像は、江戸時代、1687年、光舟が伊豆国庭冷山(天嶺山)より当寺に遷したものという。(縁起)
 現在、静岡県伊豆河津町に天嶺山(てんれいざん、350m)があり、その北麓には南禅寺がある。奈良時代、749年に行基が開基した仙洞山那蘭陀寺(せんとうざん ならんだじ)が前身とされる。後に、山崩れにより一夜で埋没したという。現在の堂宇は江戸時代に再建された。現在も、平安時代前期、10世紀の24体の仏像、破損した仏像・神像も安置している。一部、宝誌立像との類似点も指摘されているが、南禅寺の仏像の造立年はやや早く、詳細は不明とされる。
 宝誌立像は、中国の僧・宝誌和尚が自らの面の皮を指で裂き、十一面観音の容貌を現したという伝承による。顔の中央が縦に開き、中より頭上面を頂いた菩薩面が新たに出現しようとしている。痩身の像は、左手に薬壺、右手を施無畏印を結び、蓮華座に立つ。像表面の全面にノミ痕を残した鉈彫像は、平安時代に東国を中心に流行した。木造、ヒノキ材、一木造、ナタ彫り、彫眼、素地。京都国立博物館寄託。

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