2020-09-21 19:50:58Dona

0・エンドレス ストーリー

  「縁」は不思議な糸のようなものなのだ。糸の一つの端は職場の軌道から脱線した迷子を繋ぎ、もう一つの端は先を越して、先頭でその迷子をこれまで見たこともないもの、触れ合ったことのない人のところへ導いていく。

  約20年ぐらい前のことだが、ある手相占いの人が私にこう言った。「あなたの人生は途中で困難にぶつかったりするようなことがあっても、周りの誰かが手を差し伸べてくれるでしょう」と。このきっかけで、これまで「占いって、ウソばかり!」と思っていた私は、その時から、出会えた人を大切にしようとしている。皆は私との間に強い縁があるのだ。そして、皆はいつか助けてくれる人になるかもと思っているのだ。(笑)

  自分でも予想できなかった。私に縁がある人は、さらに台湾から遥かな日本にいるのだ。百瀬家で暮らしていた3ヶ月は、大切で素晴らしい思い出として心に刻まれた。お父さん、娘さん、特にお世話になったお母さんには、ちゃんと感謝の気持ちを伝えようと思っていたのに、単語量が足りなかったし、言葉に隔たりもあったから、口に出そうとしても、言い出せないことがよくあった。2004年4月30日、帰国の日、もう一人で成田空港まで行けるようになっていた。この日は休日でないので、家族が皆仕事や授業で空港まで送ってくれなかった。でも、お母さん、それはよかったと思ったのよ。別れは、泣き虫の私にとって、最も辛いことなのだ。今なお、あの日の朝、お母さんのハグを覚えている。お母さんのおかげで、言葉が通じなくても、心を込めてハグして、自然と心が通い合えるということが分かった。

  百瀬家滞在記を日本語版にしてみたいと思ったので、八年ぶりにその時書いた中国語版のものを読んだ。読むたびに、何だかドラえもんのタイムマシンで、現在から過去へ、また過去から現在へと行き来するような感じがした。他人から見れば、つまらない生活のことばかりかもしれないが、すべては自分の実感がこもったものなのだ。授業の進度が追いかけられなくて泣いたり、映子さんのことを悲しんだり、また、ホームシックで帰国したいと思ったり、コンビニのお弁当が食べられなくてがっかりしたりして(笑)‧‧‧いろいろなことがあっても、お母さんの慰めと励ましなどで、乱れた心が落ち着いた。

  お母さんが送ってくれたシャツと温かいセーターは、今なお、着ているのよ。(その時よりはあまり太らなくてよかった。「メイド‐イン‐ジャパン」、やっぱり丈夫!!(笑))。帰国してから数年間経っても、お母さんとの縁が続いてきている。「東京に来たら、うちに泊まってください、ホテルの宿泊料も節約できるし」とお母さんは何度か手紙やメールに書いてくれた。2011年東日本大震災、その日の夜、残業が終わって帰宅した8時ごろ、百瀬家に電話を掛けたが、なかなか通じなくて心配だった。それに、テレビニュースの被災地の映像を見て、気を揉んでいた。10時ちょっと前、受話器から帰宅したばかりのお母さんの元気そうな声がやっと聞こえて、ホットした。しかし、「地震より津波のほうがずっと怖い」と言った私は、そこへいきなり泣いてしまった。逆に、帰宅難民になりそうだったお母さんが「地震の被災映像など見ないでよ、見すぎると体によくないよ」と言って慰めてくれた。(確かにそうだった。見すぎると何だかうつ病になってしまいそうな気がした。)このようによく関心を寄せてくれるお母さんに対して、私から何かをしようとしなければと考えて、百瀬家滞在記の日本語版を始めた。

  ホームステイで百瀬家に滞在できてよかった。長い間経っても、ありがたいと思う気持ちが少しも変わらない。これを記念品に、お母さん、百瀬家のご家族に送りたいと思うのだ。